同棲生活2-3
朝、目が覚めて──目の前に大好きな人の顔があるということの幸福を、初めて知ったときの感動は、まだこの胸の内にある。
どこかくすぐったいような、ジンワリとにじみ出る幸せを噛み締めて、ホンワリと微笑みが口元に浮かぶ。
自分だけのものではない温もりで温められた布団に頬を埋めながら、スヤスヤと寝息を立てる彼の顔をジ、と見るのが好きだった。
まだ頭上の目覚まし時計は定時を差さない。
かすかな時計の音にすら、彼はすぐに反応して目が覚めてしまうだろう。
だから、彼よりもほんの少しだけ朝に強い自分の、ちょっとした1人だけの時間だった。
当時は、毎日の過酷な練習と夜遅くまでの勉強会などで、目覚ましが鳴るまでは熟睡することがほとんどだった。
けれど、「過酷な練習」が無くなり、野球部を引退してからは……体をなまらせない程度の自主訓練だけで、体はそれほど睡眠を訴えることがなくなっていた。
そのため、二ヶ月ほど前とは違って、目覚ましが鳴る前に目を覚ますことができた。
その、ほんの少しの時間。
カーテン越しに薄く入り込む朝日に、ほんのりと照らし出される日に焼けた顔。
──だいすきな、ひと。
お世辞にも「綺麗」な顔だとか、「可愛い」顔ではない、決して。
でも、その全てに惹かれた。
全てをなげうってでも、追いかけたい、と、思うほどに。
今思えば、初めて彼のプレイを見たときに感じた、全身を駆け抜けるような衝撃が──「一目ぼれ」というヤツだったのかもしれない。
まさかココまで公私ともにのめりこんでしまうなんて、あの時は思っても見なかったけれども。
「──……。」
そ、と指先を伸ばして、彼の頬に手を触れる。
いつもは穏かな表情ばかり浮かべる顔も、寝顔はどこかあどけなくて、なんだか微笑みが零れた。
あの最後の瞬間が、今も脳裏に──全身によみがえってくる。
灼熱の戦い。一ヶ月のブランク。体を蝕む疲労感。貫く達成感。勝利への歓喜。苦しみと湧き上がる闘志。くじけそうになるたび、走った叱咤。
五度立った甲子園のマウンドで、ドラマがあった──そんな一言では語りつくせないほど、色々なことがあった。
山田を信頼できなかったこともあったし、ひたすら背中に打ち寄せる孤独に身を震わせたこともあった。
それでも結局最後には、いつも自分ひとりではないのだと、そう思うことばかりだった。
誰もが俺の背を見て、誰もが俺を支えてくれた。
その俺が唯一正面向かって見つめる相手は──誰よりも信頼できる人だった。
「俺は、やっぱり──果報者だよな。」
小さく囁いて、里中は目元を緩めて彼の寝顔をジ、と見つめた。
幸せすぎて不安を覚える──なんていう台詞を、ふと思い出した。
冬の合宿所で、野球も何も見るものがなくて、ドラマか何かをつけていたときに流れてきた台詞だ。
それを聞いて、岩鬼が一笑に伏した後、誰にともなく恋愛話が始まった。
話すネタのなかった山田も里中も、ただそれを聞いているだけだったけれど……恋愛している最中の、必死だけどこっけいな、そんな感情は自分にも良く分かることだった。
本人は必死なんだけど、その分だけから回りしている気がする、なりふりなんて構っていられない。──それは、まさに自分のことだと、そう思ったから。
プライドは高いけれど、里中は基本的に自分が心の奥底から望むもののためには、なりふりなど構わないところがあった。
どちらかというと、プライドが高そうに見えない山田のほうが、周囲を気にするところが大きい。
──優しい、から。
「…………来月、か。」
その山田の輪郭を指先で辿りながら、ふ、と口を突いて出た台詞に、里中はかすかに顔を歪めた。
夏の大会の後、何度か脳裏に思いつきはしたが、いつもその先を飲み込んできたことだった。
──今が幸せならそれでいい……そう言えたのは、夏まで。
夏が過ぎて、新学期に入れば、クラスメイト達は卒業後向けて最後のラストスパートに入っていた。
二年生までの間とは違う、三年生の二学期の始業式は、奇妙な重苦しさに満ちていた──聞けば、就職志望者はこれから本格的な就職活動を始めるために、夏休みの間は会社の下調べをしていたというし、進学希望者は、夏休みの勉強が合格の分け目を決めるからと、頑張っていたのだという。
フイに現実に取り残された気がした。
いや、確かにあの夏の甲子園も、里中たちにとってはこれ以上ないくらいにリアルな現実だったのだが──それが終わってしまえば、三年生という実質上、目の前にあるのは卒業後の進路だった。
しかもその上、間の悪いことに、里中は2年の春の甲子園の後──本来なら、最終的な進路の計画を出す段階ですでに、中退することを決意していた。
……いや、正しくは、明訓高校に入ったときから、もしかしたら、中退することになるかもしれないと……日々体調を悪くしていく母から目を逸らすようにしながら、そう覚悟をしていたのかもしれない。
だから、進路の希望書を書くときはいつも、里中は「就職」の文字しか書いてこなかった。本当の意味でソレが、「卒業後」なのか、「中退後」になるのか……本人ですらも分からないままに。
そして事実、5月のゴールデンウィーク中に、とうとう母が倒れ──里中は、それ以降学校に登校することはなかった。
「母の看病のため」の名目の元に、誰にも黙っていてほしいと願い出て、5月の終わりまで学校を休んだ。もちろんその間は、母が検査入院している病院に付き添いでつきっきりであったため、アパートを訪れたらしい山田や微笑、殿馬達と顔をあわせることはなかった。
このような形で終わりを告げたくないと願う気持ちと、母の体を思う気持ちと──心が引き裂かれると思うほど、悩んだ。
特に昨年の夏は、甲子園二回戦で敗退をいう結果を生んでいたからこそ、三年の夏こそは、という気持ちも人一倍あったのだ。
あと、たった三ヶ月。
夏の大会さえ終わったら、中退してもいい──あと、たった三ヶ月でよかったのに。
そう思う気持ちを噛み締め──それでも、母の検査結果を聞いた瞬間、里中の気持ちは決まっていた。
そのときの葛藤や苦しみは、誰にも知られたくなかったから、里中は学校に一度も顔を出すことはなかったし、アパートに帰ることもしなかった。所用で病院の外に出なくてはいけなくても、明訓高校の周囲にだけは決して近づかないようにした。
「あの時から思うと、今のこの状況だって、夢みたいだよな。」
すぅすぅと、規則正しい寝息を吐く山田の頬を左掌で包み込みながら、里中は開くことのない彼の瞼を、飽きることなく見つめた。
母の検査結果が出たときにはもう、里中の心の整理はついていた。
学校を辞めることに未練がなかったかと聞かれたら、はい、と答えることはできない。
高校野球が人生の全てだと、そう熱狂的に思う熱は、そのときの里中の心の中にも、くっきりと残っていたからだ。
でも。
野球は、どこだって出来る。
──いつだったか、山田がそう言った言葉が、胸にアリアリとよみがえっていた。
それがイツの台詞だったのか、里中も覚えている。
これほどの野球バカが、高校に進まないはずがないだろうと、そう何度目かに山田の家を訪れ、彼の高校進学先を聞きだそうとした時のことだった。
野球を志す以上、高校野球を望まないはずがない。栄光の甲子園を、簡単に諦められるはずがない──栄光の甲子園大会を、どうして見なかったフリできるというのだろう? そこへ行く実力を持っているというのに。
「………………やまだ。」
小さく囁いて、里中は彼の顔のほうへ少し体をずらした。
そのまま彼の体に擦り寄ると、暖かな温もりに、ほぅ、と吐息が零れた。
高校を中退すると決めたときに、自分の高校野球は終わりを告げたのだと思った。夏の大会の屈辱は、春の大会で洗われたのだと、そう思うことにした──感情でそれを理解するのは難しかったけれど、それはムリに納得させた。
そのときに……明訓高校の他のナインとは、何かの折にあえることはできるだろうが、山田と会うことはもうないかもしれないと、そう思ったものだ。
他のメンバーはとにかくとしても、山田は必ず卒業後にプロに行く男だったから。
そうすれば、母の容態が安泰した後、就職して働きながら草野球か何かで野球を続けていく自分と会うこともなくなる。
シーズンが来るたびに、山田の活躍をテレビのコチラで見て──あるいは、彼が出る試合のチケットを買って、高校時代のことなど口に出すこともなく、ただ観戦するだけになるのだろう、と。
あのときの、言葉に出来ない苦しみは、思い出したくもないくらいだ。
けれど、当時は、この苦しみをいつまでも抱え続けていくのだと思っていた。それが──山田の信頼を裏切る自分の、当然の報いなのだと。
なのに今、自分はこうして彼とともに在れる。
それを他でもない母から知らされたときの──まだ彼と野球が出来るのだと思ったときの喜びを、どう表現できるだろうか? 口にすることが出来るだろうか?
まだ必要とされている──そんな一言で済まされないくらいの、彼とまた野球が出来る喜びが、ただ全身を締めていたあのとき。すぐに飛び出して会いに行きたいと願ったあの瞬間。
「おれを惚れさせるのも上手いよな──山田は。」
ここまで骨抜きにさせておいて……彼のいない人生なんて考えられないようにさせておいて。
「………………来月、か。」
時が迫るたびに、何度呟いたか分からない言葉をもう一度呟き──里中は、山田の顔から視線をはずし、ゴロリ、と仰向けになった。
最近ようやく見慣れた気のする山田の家の天井は、古びた色が濃く染み付いていた。
薄暗闇に浮き上がって見えるそれを、見るともなしに眺めながら、おととしのこの時期を思い出した。
昨年は、明訓高校からプロ野球へのドラフト推薦はなかった。
だから、「ドラフト」の盛り上がりを体験したのは、高校一年の秋が始めてだ。
土井垣が監督になって──あの苦難の関東大会の終わったあとだったために、ドラフトに誰が選ばれるのか、ということを……正直、不安を抱えて見ていた覚えがある。
聞きたいけど聞けない。迷っているとわかるからこそ、自分達は口を出せる問題ではない。
夜遅くに、布団の上で膝をつき合わせながら、監督問題がこれからどうなるのかと、そうみんなで話したこともあった──結局、答えは出ないまま、土井垣の結論を待つしかなかったのだけれども。
「いろいろ、あったよな……。」
青春のほとんどを……高校時間のほとんどを、彼とともに野球をして過ごした。
相手をしてくれる人の居なかった中学時代──誰にも受けてもらえなかったが故に、キャッチャーミットにめがけて投げること事態が、投げにくいと感じるようになってしまっていた。
それも、今までの欲求不満をぶつけるように山田に球を投げ続けていくうちに解消されていき、充分エースの名に恥じなくなったと、自負してはいる。
そうこうしているうちに、甲子園20勝投手、小さな巨人と呼ばれて──。
でも、それも……もう、おわり。
自分たちは明訓高校を卒業すると同時に、それぞれの道を歩まなくてはいけなくなる。
「…………俺の……道…………。」
呟いた脳裏に思い描くのは、どうしても野球をしている自分の姿だった。
野球以外のことをしている自分なんていうのは、とてもではないが思い浮かばない。
それも、必ず投げるミットを構えているのは、「山田」なのだ。
──……日本一のキャッチャーに、早々にめぐり合った投手の苦労なんて、自分以外には分からないだろう。
そのままそらした視線が、山田家の小さな部屋の片隅に置かれた小さな木の机で止まる。
その机の前──壁に貼られた古びたペナントが、目に飛び込んでくる。
「早稲田……。」
俺の、道。
──もう一度その名を呟いて、里中は隣で寝ている男の顔を見上げた。
俺が、これから、歩みたいと思う、道。
その道を考えるとき、いつだって自分の隣には、彼が居る。
野球をする時にだって、どこにだって。
「………………………………。」
答えは、いつも簡単だと思える。
山田は絶対、ドラフトで選ばれるだろう。
彼は確実にプロ野球への道を歩む。
野球ができるなら、どこでも同じだと、そう山田は笑うことだろう。
大学野球でも草野球でも、プロ野球でも──山田は、ただ自分が野球ができたらいいのだろう。
──それが、俺と山田の大きな違いだ。
野球ができたらそれでいい──だけど、俺はその世界に、どうしても、山田に居て欲しかった。
「それが……俺の…………望む、道。」
ささやくように、呟いた瞬間、すとん、と胸の中に何か落ちた気がした。
俺の、望む、道。
「……またいつか、お前と──野球がしたい。」
+++ BACK +++
はいはい、イミがないのでゴミ行きですよ。
ていうか、あんまりにも里中が女々しいので、書ける続きがなくなったとも言う。
ちなみに、山田さんちで何で一緒に寝てるんですかとかいう突っ込みは不可。
いいの、卒業したら結婚するんだからっ。(言いたい放題)