WINTER/SPRING










 年が変わり、2月の春のキャンプインも目の前に迫った冬の只中。
 心地よい日差しが差し込む縁側で、ゆったりとした空気が流れていた。
 その穏やかな空気を震わせるように、バシィッと鋭い音をさせるミットの音が響く。
 縁側に座った二人──加代と山田のじっちゃんは、お互いの中央にお茶を置いたお盆を置き、のんびりとその音の根源である二人を見つめていた。
 風を切るボールの音とそれが収まるミットの音を聞いていると、ここが長屋の一角だと言うことも忘れてしまいそうだ。
 ──まるで、野球場に居るような気がしてくる。
 ここは野球場ではなく、山田家の素朴な自宅であることは分かりきっていたけれど、それでも目の前を走っていく白球の速さに、そんな錯覚を覚える。
 バシッ、と、景気の良い音をさせて、山田のミットに白い球が収まる。
 それと同時、小さな庭と道路の境界線である壁の辺りに群がっていた顔が、
「おおーっ!」
「里中君、次、カーブ投げとくれよ、カーブ。」
「いんや、もう一球スカイフォークだっ!」
 好き勝手に、やんややんやとはやし立てる。
 そんな近所のおじさんたちの野次に、山田は苦い笑みを貼り付けて、里中に向けて球を投げ返す。
 パシ、と小さく音を立てて、里中はそれを受け取ると、首を傾げるようにして壁際の面々の顔を見やった。
「俺は、山田のリードに従いますから。」
 ニヤリ、と笑ってそんなことを言う里中に、
「えーいっ、それじゃ太郎ちゃんっ! 次はカーブっ!」
「スカイフォークだってばっ!」
 面々は同時に、どっしりと地面に構える山田に叫ぶ。
 そんな彼らに、山田家の庭で投球練習をしていた二人は、無言で視線を交わすと、苦い笑みを刻みあった。
 そして一瞬遅れて、里中はゆっくりと振りかぶる。
 ──里中が保土ヶ谷に越してきてから、時々山田家の庭は、こんな風に近所の人で鈴なりになることがある。
 千葉に居るときと違って、里中は気軽に山田の家に来ることができたし、山田もそんな里中を歓迎してくれる。
 そして、久し振りに暫定的ではないバッテリーを組む2人に、昔からのこのバッテリーのファンでもある長屋の連中は、仕事中にも関わらず、彼らが投球練習を始めると、こうして壁に鈴なりになって見物に来るのだ。
 昔から、見られながらの投球練習には慣れているから、それは構いはしないと2人は言うけれど──……、
 シュッ……バシィッ。
「おおっ、揺れて落ちたっ! 今のは新球だろっ!?」
「ばーか、シンカーだよ、な、太郎ちゃん?」
 こういう風に、彼らに見せるためだけに変化球を投げることもあり、それは負担になってはしないかと、じっちゃんと加代は心配を覚えないでもない。
 けれど、当の2人は何か含みのある笑みを交し合うばかりで、決してその心配を肯定することはなかった。
 そんな息子を見つめる加代に向かって、じっちゃんは小さく笑いながら、
「ずいぶん賑やかじゃが、疲れてないですかな、里中さん?」
 もしそうなら、中に入ってたらどうだろうと、優しく気遣いを見せてくれる。
 加代は彼を見上げて、目元を緩めるように笑うと、
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。
 こうして太郎君と智が投げているのを見てると、なんだか元気を分けてもらってるような気がしますし。」
 嬉しそうに目を細めて、目の前に視線を転じた。
 畳屋の小さな庭では、その狭い庭を目一杯に使って、2人が投球練習をしている。──いや、その表情と態度から、練習というよりも、遊びのように見える。
 そんな2人を見ている近所の人たちと同じように、里中の綺麗な投球フォームに見入りながら──加代は、こうして間近で息子が投げるのを見るのは、一体どれくらいぶりだろうと目を細めた。
 小学校の時は、良く近所の公園で暗くなるまで投げ込んでいたのを、ハラハラしながら見ていた覚えがある。
 仕事の休日になると、「どこへ行きたい?」と聞けば、必ず「野球」。
 夫が入っていた草野球チームに混じって、暗くなるまで一緒にキャッチボールをしてもらっていたっけ。
 あんまりにも里中の毎日が野球野球で、なんだか疎外感を感じて、自分もキャッチボールくらいは混ぜてもらおうかと、グローブとボールを買おうか真剣に悩んだこともあったっけ。
 そんなたわいもない昔のことを懐かしみながら、
「なんだかこうして、本当に嬉しそうに投げてる智を見てると、私も一緒にキャッチボールでもしたくなってきました。」
 軽い笑い声を上げながら、目の前を線のように通り過ぎていく白球を凝視する。
 スパァンッ、と心地よい音を立てる球は、とてもではないが目で追えるものではなく、一人前の顔で──けれど楽しそうに投げている今の息子の球は、自分では受けれそうにない。
 何せ、スピードが全然違う。
 仕事帰りの公園や川原で見かける、子供達が投げていた球くらいなら、加代も受け取ることくらいは出来るだろうが、里中や山田が投げる球なんて、とてもじゃないが受けられない。
 きっと加代が「母さんも混ぜて」と言えば、受けれるようなゆるい球をほうってくれることは違いないのだが、それはそれで悔しいような気がした。
 そんなことを零す加代に、それなら、と部屋の中にいたサチ子が、畳の上を膝ですべるように近づいてきた。
「それならお母さん、私とキャッチボールしようよ。
 兄貴ったらさ、私とじゃ肩ならしにもならないって言うんだよ。」
「あら、さっちゃんもそう言われるの?」
 大仰に驚いたように口元に手を当てる加代に、芝居ぶった仕草でサチ子も大きく頷く。
「だから最近じゃ、兄貴、里中ちゃんとしかキャッチボールしてないの。
 おかげで私は運動不足だぁ〜。」
「そりゃ単に、サチ子がぐうたらしてるからじゃろうが。」
 まったく、と呆れたように零すじっちゃんに、サチ子は顔を歪めて首をすくめる。
「えへへ……んまぁ、でも、一人で壁相手にキャッチボールしててもつまんないもん。」
 ね、とサチ子に同意を求められて、そうねぇ、と加代は彼女につられたように笑った。
 目の前で投球練習をしている2人は、本当に楽しそうで──見ているほうの腕もウズウズしてしまってもしょうがない。
「──ふふ……それはちょうどいい運動になるかもね。」
 きっと里中に知られたら、「まだ本調子じゃないのに!」と怒られるだろうと分かっていたけれど、目の前で2人の世界を繰り広げられながら投球練習をされては、なんだか疎外感を感じてしまって、しょうがない。
 それなら、彼らがしている隣で、自分たちも女同士、のんびりとキャッチボールをしてもいいんじゃないかと……そんなことを思う。
 昔、小さな智と一緒に、グローブも嵌めずに軟球でキャッチボールをしたように。
 バシィ、と心地よい音を立てるミットを構える山田へと視線をあげた。
「ナイスピッチ、里中。」
「ん。」
「あと10球でラストにしようか。」
「そうだな。」
 簡潔な会話だけしか交わしてないのに、その2人の間には濃厚な空気があって、そこにはなぜか踏み込んではいけないような気がする。
 そう言えば、分かる分かると、サチ子が同意を返してくれた。
「お兄ちゃんと里中ちゃん、高校のときからこんな感じだったもんね〜。
 なんていうの? 邪魔されたくないオーラが出てるよね。」
 腰に手を当てて断言するサチ子に、言われて見ればそうねと、笑って答える。
 里中がキャッチボールをしている姿なんて、本当に見るのは久し振りで──考えてみたら、中学時代からまともに見ていないのだと気づく。
 高校時代には、仕事ばかりで、結局一度も試合には応援に行ってやれなかった。いつも仕事場で、ラジオを片手に応援するばかり──。
 明訓高校に足を運んだのだって、三者面談のときくらいで、それすらも、仕事の合間に抜け出して駆けつけただけで、時間に余裕はいつだってなかった。
 野球部員の数人に挨拶をしたことはあったけれども、里中が練習をしている光景を見ることはなかった。
 それは、彼がプロ野球に入ってからも同じだ。
 練習をするには、アパートから近い公園や川原ばかりで、自分の目の前で投球練習をすることもないし。
「………………。」
 そう思えば、本当に息子の投球練習を見るのは久しぶりなのだと、感慨深げに思った。
 パシィン、と心地よい音を立てるそれに、加代は目を細める。
 隣に居るじっちゃんは、のんびりとお茶を飲みながら、加代と同じように穏やかな表情で目の前の二人を見守っている。
 あと、8球。
「よし、球は走ってるぞ。」
「うん。」
 身内だからこそ良く分かるというのか、投球の合間のそっけない会話にも、色がついているのが見ていて分かる。
 ニッコリと視線を交し合う里中と山田に、加代は込みあがる微笑みを漏らす。
「──……春ねぇ…………。」
 しみじみと頬に手を当てて、里中がゆっくりと振りかぶるのを見ていた加代に、サチ子はキョトンと目を見張る。
「え、春?」
 今日は気候が心地よいからいいけれど、本当ならいくら昼間でも、こうして縁側の窓を開けているのは、寒くてしょうがないはずだ。
 確かに、暦の上では、「初春」というかもしれないけど。
 そんな顔になるサチ子に、加代はクスクス笑いながら、
「春よ〜。それで、2人が家の中に入ってくると、ココは常夏。」
 そんな軽口を漏らす加代に、
「あぁっ、なるほど! そういうことか〜っ!」
 あはははっ、と納得したようにサチ子が笑った。
 そんな彼女の目の前で、パシィッ、と鋭い球が一球、走る。
──ストレート。
「言えてる〜、お兄ちゃんと里中ちゃんが居れば、ストーブも要らないよねぇ。」
「こら、サチ子。」
 なるほどなるほど、と楽しげに頷くサチ子に、じっちゃんが渋い色と声で彼女の名を呼ぶ。
 けれどそんな祖父の言葉は一向に気にも留めず、サチ子は自分の湯のみにお茶を注ごうとして──急須の中身が空なのに気づき、ポットからお湯を注ぎ込む。
 コポコポと良い音と匂いを放つお茶を見ながら、加代はもう一度視線を前へと戻す。
 その加代の隣で、よっこいしょ、とじっちゃんが重い体をあげた。
「さぁて、風呂に湯を張ってくるかな。」
「あ、じっちゃん、里中ちゃんが入るんだから、ちゃんと入浴剤も入れてあげてね〜、体冷やすと大変なんだから。」
 言いながら、あ、里中ちゃんとおにいちゃんの分のお茶も居ると、サチ子はお湯を入れた急須を盆の上に置いて、身軽に立ち上がる。
「分かってるよ。」
 言いながら、縁側を通って風呂場へ向かうじっちゃんに、すみません、と加代は頭を下げる。
 そんな彼女に、いやいやと笑いながら、
「せっかくじゃから、里中君がお風呂に入ってる間、サチ子のおしゃべりの相手でもしてくだされ。
 どうもこの老いぼれ相手じゃ、サチ子は不満らしくてのぅ。」
 肩を竦めるようにして風呂場の入り口に手をかける祖父に、サチ子は腰に手を当てて息を一つ、大きく吐く。
「何言ってるんだか。ジッちゃんが若い女の子の話題についていけないだけでしょー。
 んも、すぐに私の話しを投げ出すんだから。」
 まったくもう、と膨れるサチ子に、はいはい、と風呂場へ消えていく祖父に、サチ子はますますふてくされるように膨れた。
 そんな彼女に、加代はコロコロと楽しげに笑い声を漏らした。
「ふふ……私で良かったら、いくらでも聞くわよ、サッちゃん。
 私もどうも、しゃべる人が少なくって、話を聞くのにも話すのにも、退屈してるもの。」
「わっ! だから加代お母さん、大好きっ!」
 タッ、と畳を蹴りつけて、サチ子は縁側で空になった湯飲みをお盆に戻す加代に、背中から抱きつく。
 キュ、と抱きしめると、彼女の髪からいい匂いがした。
 サチ子が使っているシャンプーとは、違うシャンプーの匂いだ。
 どこか華やかな優しい香を吸い込みながら──ん? と、サチ子は首を傾げる。
──なんか、この香……知らない香なんだけど、どこかで嗅いだような気がする。
 いや、それを言えば、風呂上りの里中がこんな匂いをさせていたかもしれないけれど──……、いや。
「…………里中ちゃんちから帰ってきたおにいちゃん………………?」
 思わず加代に抱きつきながら、胡乱げにサチ子は呟いた。
 その答えに行き着いた瞬間、なんとなく脱力感を覚えないでもない。
「ん? どうしたの、サッちゃん?」
「うぅん……なんでもないでーっす。」
 フルリとかぶりを振って、サチ子は加代の肩に手を置くようにして起き上がると、
「兄貴ーっ! あと何球でおしまいっ!?」
 スパァンッ。
「あと3球だ。」
 受け止めた球を里中に投げ返す山田の答えに、サチ子はクルリと踵を返した。
「そ。それじゃ、お茶とタオルを用意してきてやるよー。」
「はいはい。」
「はい、は一回だろーっ!」
 そんな可愛らしい会話を交し合う兄妹に、くすくすと加代は微笑んだ。
 そのまま目をあげると、こちらを見ている息子の視線とぶつかった。
 里中は、パチパチと目を瞬いて、首を傾げる。
 加代はコクリと頷いてやって──好きにしなさい、と唇だけで答えてやる。
「…………?」
 加代の唇の動きを的確に感じ取ったらしい里中は、彼女の言っている意味が分からないとますます首を傾げたが、すぐに山田がグローブをパァン、と拳で叩く音にわれに返ったように彼のほうを見た。
「ラスト3球だ、里中っ。」
「よし、行くぞっ!」
 頷く里中に、壁際の観客達が、わーっ! とわざとらしい盛り上がりの声をあげる。
 そんな愉快な様子に、ますます笑い声が零れて、加代は目元を緩めて笑った。
──あぁ、本当に、もう。
 なんて幸福な、昼下がり。











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一度は書いてみたかったんです、山田さんちと里中さんちが仲がイイところを。

さりげにところどころに山里をちりばめて見ました・笑。
この後、二人が一緒に風呂に入るのはやりすぎだと思うので、里中が先に風呂に入るということで……(笑)。



本当は、↓↓ こういう話になるはずだったんですが ↓↓

じっちゃん「里中さん、最近、血色がいいようじゃのぅ。」
加代「はい、おかげさまで……本当に最近は、ゆっくりと眠れるんですよ。
 山田君……太郎君のおかげだわ。」
サチ子「え、お兄ちゃんのおかげ? なんで?」
加代「山田君が毎日顔を覗かせてくれるおかげで、智の寝言が少なくてすむのよ〜。」
じっちゃん「……里中君の寝言?」
サチ子「里中ちゃんの寝言?」
加代「そう、もう高校の時から、山田君の名前を良く言うのよ。
 あの子ったら、夢の中でも野球してるのよ。
 『山田……それは無理だ……』
 だとか、
 『山田、打て……打ってくれ……っ』
 だとか言うの。
 もう、ほとんど毎日。
 時々、山田君の名前を叫んで飛び起きるのよ。
 はじめの頃は、驚いてそのたびに起きていたけど、もうねぇ……さすがに10年も続いたら。」
じっちゃん「じゅうねんも……。」
サチ子「あ、分かる分かる。
 うちのお兄ちゃんもね、寝言じゃないんだけど、夜中にムクリと起きたかと思うと、突然窓を見ながら、『里中……』とか呟いてるよ。
 どうせ里中ちゃんの夢でも見て、心配してるんだろうなー、って。」
加代「あら、それじゃ、うちの智といっしょね。」
サチ子「一緒だねぇ〜。」
加代「それで、オフシーズンになると、その寝言が減るのよ、太郎君と会ってるからっ!」
サチ子「そうそう!それも一緒〜っ!!」


 あははははは、と軽やかに笑いあう二人であった。──っていう話。

いやほら、加代さん、「山田」とか飛び起きる里中見ても、動じないから……(笑)、こりゃ、毎日のように「山田」とか寝言言うのを聞いてて、もう慣れたんだろうなぁ〜って思ったんです。