その日、甲子園球場はかつてない歓声に揺れた。






「甲子園」















 試合終了のサインが鳴り響いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 何を考えているのか、何を思っていたのか……それすらも分からないまま、走り出していた。
 走り出しながら、視界がグニャリと歪んだと思った。
 それが瞳に浮かんだ涙のせいなんだと、間をおかずに理解する。
 スゴイ、と、やった、と──みんなが叫び、飛び跳ねて喜ぶ。
 球場の満員の観客席は、誰もが総立ちで、偉業を成し遂げた選手たちの名を呼ぶ。
 その声援の波に揉まれながら、抱き合い、喜びの涙を流し──そして、ひとしきりの抱擁と声掛けが済んでも尚、胸の内から湧き上がる喜びを堪えきることは出来なかった。
 グローブを外した手で、ガシリと手を握り合い、微笑みあう。
 こみ上げてくる喜びのまま、再び山田に抱きつこうとしたところで、
「ええ加減くっつくのはやめんかい、サト! これやから三流はあかんで。」
「整列づら〜。」
 ヒョイ、と後ろ襟首を掴まれて、岩鬼にズルズルと引きずられる。
 里中はそれを乱暴な手つきで払って、自分で歩けるっ! と叫ぶと、先に一列に整列している紫義塾高校を正面から見た。
 彼らは負けてすっきりした顔をしていた。
 その中に立つ、一際目立つスラリとした背の青年が、ニコリとこちらに向けて微笑みかけてきた。その穏かな微笑みを見て、里中も微かに笑って返した。
──本当に今年の試合は、波乱万丈だった。
 先に並んでいる後輩達の姿を見て、そこへ歩いていこうとする岩鬼たちの背中を見て、またなんとも表現しがたい感慨が胸にこみ上げてくる。
──終わった。
 最後の一球を山田が受け止め、審判が声高らかにバッターアウトを宣言した瞬間も思ったことを、今、再び思う。
 俺達の高校野球は、終わった。
 マウンドを降りていくと、その最後の一球を、山田がしっかりと受け止めてくれたことが、今更ながらに実感のように湧いてくる。
「……山田。」
 小さく呼びかけると、先に立って歩きかけていた山田が振り返り、新たな涙を目に溜めている里中に、小さく笑った。
「里中……行こう、整列だ。」
 ポン、と肩に手を置かれた。
 その厚い掌と温もり。
 何度もこの手に助けられてきたことを思い出しながら、里中はソ、とその手に自分の手を重ねた。
「あぁ。」
 頷いて、そのまま山田を見上げる。
「……終わったな。」
 呟いた瞬間、ストン、と何かが胸の中に落ちた気がした。
 その、嬉しいような寂しいような──不思議な達成感に、ブルリと体が震える。
 ──終わった。
「──……うん、そうだな。」
 最後だ、と……そう続けて、山田がやんわりと促す先で、すでにもう整列している岩鬼が、はよせんかい! と怒鳴るのが聞こえた。
「サトっ! やぁーまだ! いつまで待たせる気ぃや!」
 全員の視線が自分たちに向いているのに気づいて、山田と里中は、慌てたように走り出す。
 ホームプレートを跨いで向かい合って立つ紫義塾高校と明訓高校──ポッカリと空いた2人分の場所に駆け込んだと同時、審判が待っていたかのように終了を告げる声を、高らかに宣言した。
「ありがとうございましたっ!!」
 帽子を取り、一礼しながら──噛み締めるような興奮と喜びと……そしてほんの少しの悲しみは、ずっと胸から湧き出し続けていた。













 思い出せば、語りつくせないほどのドラマがあった甲子園球場。
 この表彰式を踏んだのは、たった4度。
 けれど、高校3年間5回の挑戦の中の「4度」は、十二分に偉業だと言える。
 同時に、「4度」を「5度」にできなかったことが、ほんの少しだけ悔しく思う。
──山田が居れば、それも夢じゃなかったはずなのに。
 夏の大会の表彰式を終えた──静かになったグラウンドを見回す。
 興奮を残した球場の観客席はまばらになり、ソコに詰めていた客達は、今ごろは甲子園の外をグルリと囲んでいるのかもしれない──例年、そうであったように。
 紫義塾高校の人たちは、握手を交わし挨拶をした後、一足先に帰っていった。
 彼らは、「打倒 山田」のために野球の道を選んだのだと言っていた。
 そして、もう山田と戦う「次」はないのだから、来年からはまた剣術で上を目指すのだと、そうも言っていた。
 そんな──颯爽と去っていった男達の、負けて毅然とした姿が思い出される。
 彼らが入っていた向こう側のベンチには、もう人気がない──いや、清掃員が一人、入っているだけだ。
 けれどこちらのベンチはそことは対照的に、興奮冷めやらない様子の記者が、岩鬼や監督に群がっている。
 ついさっきまで、その中心には里中と山田が居た。
 これが最後の「甲子園球場でのインタビュー」になるんだからと、記者達はまるで山田の「自伝」でも作るのではないかと思うほど執拗に食いついてきた。
 さすがにタジタジになった山田と、こっそり『今大会のどの強敵よりも、強敵かもしれない。』と、最後の「難関」を前に目を交わして、嬉しい苦しみだと笑いあった。
 ようやく解放されたと思って、こうして球場を見回し感慨にふけっても。
「里中君、山田君と肩を組んで一枚っ!」
 どこからともなく、ニョキリと出てきた手に、再び捕らえられてしまう。
 記者に強引に腕を掴まれて、写真を撮られて──これじゃ、いつまで経っても解放されないじゃないかと、助けを求めるように見やったベンチでは、後輩達がノンビリと着替えている最中だった。
 どうやら彼らは、すでにもうこの事態を予測していたらしく、諦めモードに入っているようだった。
 それならばと同輩達を探すが、微笑も殿馬も記者に捕まっていて、岩鬼は自ら記者を捕まえて朗々と語り告いでいる。──いっそ、記者はみんな岩鬼のところに行ってくれればいいのにと、半ばうんざりした顔で、今度は監督へと助けを求めてみた。
 けれど、やはり同じように記者の一人にのらりくらりと返事をしていた大平監督は、すでにこの事態に関しては傍観モードに入っている様子で、自分を見ている里中と山田に気づくと、軽く手をあげて、
「これが最後になるだで、ゆっくりと答えてやるだがや。」
 と、放任体勢である。
 そんな監督に甘える形で、また新しい記者が群がってくるのに、仕方なく、一つ一つ丁寧に答えること──どれくらいか。
 ようやく山田と里中が完全に記者から解放された頃には、甲子園の観客席は人っ子一人居ない状態で、清掃員がホウキとゴミ袋を片手に歩いている姿が見えるだけになっていた。
「試合の後のほうが疲れるって、どうなんだよ。」
 まったく、と、ガックリと肩をつく里中に、
「サトはよ、これから、ま〜だづんづら。表に出りゃ、『きゃ〜、里中ちゃん、ちてき〜。』ちゅぅて、もみくちゃにされるづら。」
「う。」
 楽しげに殿馬が笑ってそんなことを言い捨て、ベンチの自分の荷物を取りに行く。
 そんな彼の言葉に、ますますうんざりした顔になる里中の頭の上に、岩鬼はドンと手を置くと、帽子の上からグシャグシャと頭をかき混ぜるようにしながら、
「体力ない虚弱児は、わいの後ろにおったらええで。
 おんどれのファンと違うて、わいのファンは謙虚で質素なクロウトさんばかりやからの。」
 自信満々にそう嘯く岩鬼の得意げな顔に向けて、
「あははは〜、なんなら、俺達で智をグルリと囲んで進みますか。
 よっ、これぞ本当の明訓四天王〜、ってな。」
 スパイクの土をカチャカチャと落としながら、微笑がにじみ出る楽しさを隠そうともせず、笑いかける。
 そんな、自分の頭越しにされる会話に、里中はムカッと顔を顰める。
「どういう意味だよ、そりゃっ。」
 頭に載った岩鬼の手を払いのけて、噛み付くように怒鳴る里中に、山田が仲間達と同じように笑う。
「人気者は大変だな、里中。」
「お前だって人のこと、言えないだろっ!」
 他人事のように言うなと、里中は憮然として山田を見返す。
 そんな里中に、俺はそうでもないさ、と返しながら、カチャカチャとスパイクの音を立てながら、山田がベンチの中に入っていく。
 それを見送りながら、後に続こうとした里中は、ふとその動きを止めて、背後を振り返った。
 ほんの先ほどまで熱狂に包まれていた甲子園は、今は微かなざわめきを残すのみ。
 整備のために出てきた係りの人たちが、それぞれ手に道具を持って、内野を均している。
 ガランとした観客席。
 先ほどマウンドの上から見回した時には、どこもかしこも人の顔だらけで、はためく白い旗や一文字が、びっしりと埋め尽くされていた。
 けれど今は、むきだしのプラスチックの椅子が、ただ整然と広がるばかり。
 視線をおろした先に見えるマウンドは、すぐ目の前にあるのに、そこまでが酷く遠いような気がした。
 と、そこへ、
「里中くん。」
 不意に声をかけられて、また新しい記者かと、半ばうんざりしながら──それでも口元に笑みを乗せて振り返った先……里中は、驚いたように目を見張った。
────立っていたのは、整備のおじさんだった。
 あ、と声を零した里中に、そのおじさんは人懐こく笑いながら、
「今、表はすんごいよ〜。あんたらを待って、まだギュウギュウしてるよ。」
 と朗らかな声で教えてくれた。
 ギュウギュウ、という表現に、そうなんですかと笑い返しながら──まぁ、これが最後になるんだから、我慢して通り抜けるか、それともいつものように裏からこっそり抜けるかと、そう眉を寄せる里中の前に、不意に手の平が差し出された。
 え、と目を上げると、おじさんが照れたように笑って、
「良かったら里中くん、わしにも握手をしてくれんかい?」
 首を竦めるようにして、里中を伺い仰ぐ。
「え……あ、はい……俺で良かったら。」
 慌てて握り締めた手は、ジットリと汗ばんでいて、節張り、手の皮はひどく硬かった。
 その手で、強く握り締められて、思わずマジマジと手を見下ろした。
「やぁ……さすが投手の手だ。里中君、すごくしっかりした手をしてるね。」
 にっこりと相好を崩して微笑まれて、里中はキョトンと目を瞬く。
 しっかりしている手は、おじさんのほうじゃないか。
 そう言いたげな里中の視線に気づいたのか気づいていないのか、おじさんは握手をした手の上に、もう片手を重ねると、それをブンブンと振って、
「里中君、三年間、すばらしい試合を見せてくれてありがとう。
 いつか君が、プロ野球選手として、またこの球場に来るのを──楽しみにしてるよ。」
 グ、と、さらに強く手を握り締められた。
 見張った視線の先。
 自分を見上げるおじさんの目が、微かに光って見えた。
「……おじさん…………。」
「今日は本当におめでとう……おめでとうっ。」
 ブンッ、ともう一度強く上下に振られて、手が離された。
 ジットリと汗ばんだ手の甲から、不意に熱が遠ざかる。
 唐突に放り出されたような感覚と共に、手の平がヒヤリと冷えたような気がした。
「それじゃ、里中くん、これからもがんばっておくれよ。」
「あ……は、はい。」
 頷いた里中にニッコリと笑って、おじさんは整備の仕事に戻るために里中に背を向けた。
 トンボを片手に抱えなおすようにして持ちながら、外野のほうへと歩いていくおじさんを見送り、里中は彼と握手を交わした手の平を見下ろした。

──いつか君が、プロ野球選手として、またこの球場に来るのを

「──……また、この球場に、来る日を………………。」
 ぐ、と手の平を握り締めて、里中はおじさんの言葉を繰り返す。
 そうしながら、強い意志をひらめく瞳をあげて、ヒタリ、と甲子園を見上げる。
 この甲子園に帰ってくる度、岩鬼は「友よ」とこの球場に呼びかけた。
 けれど、この甲子園に「帰って来る」のも、これが最後だ。
 次があるのかどうか、自分には分からない。
「……………………………………。」
 グルリと、人気のなくなった──試合中よりもずいぶんと熱気の薄れた球場を見回して、里中はゆっくりと視線を手元に落とした。
 手の平。
 節ばった長い指は、何度もボールを握り、指が擦り切れて血が流れたこともあった。
 何度も傷を負った手、肩、肘。
──ズキン、と……、真田の軟膏のおかげで痛みが無くなったはずの頭が、脚が、痛みを訴える脈動を打った気がした。
 イヤに生々しいその感触を感じながら、ポッカリと胸に空いた喪失感を感じる。
「──────…………終わったんだ…………………………。」
 湧き上がる歓喜と同じくらい、胸を締める、どこか物悲しい気持ち。
 俺は、もう、この球場に帰って来ることはないのだろうか?
 自分への問いかけに、返す答えはなかった。
 けれど、これだけは……分かる。
──もし、またここへ来ることがあったとしても、それは決して、このメンツではない……ありえない。
 そして甲子園は、自分たちを「友」としては受け入れてくれないだろう。
 そうやって、色々な意味で最後になるだろう甲子園を、ぼんやりと眺めていると、
「さーとーるー、そろそろ帰るぞー。」
 背後から微笑の声が聞こえた。
 ハッと、夢から覚めたような──ガン、と頭を殴られたような感覚を覚えながら、慌てて振り返った先。
 微笑たちが帰る準備を終えた姿で、肩からカバンを提げながら手を振っているのが見えた。
「やぁーまだのドンくさいのが移ったんかい、サト、はよせんかい。」
 岩鬼がバットケースの上に腰掛けて、しょうもない、と零す。
 そんな彼の隣で、里中の分の荷物を抱えた山田が、穏やかに微笑んで、
「里中。」
 そう、呼びかけてくる。
 その静かな笑みを認めた里中は、つられるように穏やかに微笑み返し、うん、と頷きかけ──ハッ、としたように目を見開いた。
「……しまった。」
 小さく呟いて、自分の荷物を抱えている山田の下に駆けつけると、岩鬼が地面に脚をつけて起き上がり、
「ほな、そろそろ行くで。」
 そう言いながら片手をあげて、さっさと歩き出そうとする岩鬼を、里中は慌てて片手をあげて制して、、
「ちょっと待ってくれ。やり残したことがあるんだ。
 山田、俺の荷物。」
 早口に告げながらあげた手をそのまま山田に向けて差し出すと、不思議そうな表情をしながらも、山田は、自分が背負った荷物を降ろしてくれた。
 ドサリ、とカバンが地面に落ちると同時、里中はその場にしゃがみこんでチャックを開き、その中──グラブやグラブやタオルの奥に閉まってあった、ビニール袋を取り出した。
「すぐに終わるから、もう少し待ってくれ。」
 なんじゃい、と歩みかけた脚をそのまま止めて振り返る岩鬼達にそう声をかけて、里中はビニール袋を持ったまま、ベンチの前でしゃがみこんだ。
 ガサガサとビニール袋の口を開いてその隣に置いた里中に、彼が何をしようとしているのか気づいて、あ、と高代が声をあげる。
「里中さん……もしかして、甲子園の土を持って帰るんですか?」
 まさか里中がそういう行動に出るとは思わなかったと、目を見開いて素っ頓狂な声をあげる渚に続いて、
「なんやとぉっ!? おんどりゃ、そういうのは負けたチームがやるもんやでっ!?」
 呆れたような、悲壮な雰囲気すら滲ませた声で、岩鬼が叫び──ばっちん、と大きな手の平で顔を覆った。
 里中はそんな彼らを見上げることなく、丁寧にベンチの前の土を掻き寄せる。
 今まで自分たちが戦ってきた相手高校が、敗戦の後、そうしていたように──この行為のイミを自分に言い聞かせるように、丁寧に土を掘り返していく。
「俺たちはこれが最後なんだから、その記念に持って帰ってもおかしくないだろ。」
 ──何せ、自分たちの高校3年間の青春のすべてが、ここにあるのだ。
 記念として、ここの土を持って帰って、どうして悪いと言うのだろう?
 そう言って、集めた土を手の平に乗せ、ビニール袋に入れた。
 そんな里中に、
「あ──そうか、そうだよな……。
 考えてみたら、俺たち、これが最後だからなぁ……。」
 微笑が、今思い出したと言わんばかりの口調で呟いた後、腰に手を当てたまま、しんみりと球場を見回した。
 ベンチ、ライン、土、スタンド、観客がたくさん居て入りきらなかった時に解放したブルペン。
 甲子園球場の、そのどこにも、どれにも、思い出がある。焼きついた記憶がある。
 そうして見回してみれば、ここを何もせずに立ち去るのは、確かにもったいないような気がしてきた。
「……俺も、記念に持ってこうかね。」
 そんなことを呟いて、袋になるようなもの、あったかなぁ、とカバンを探り出す。
 地面にカバンを置いて、中を探り始める微笑を見下ろした高代は、不安そうに口元に手を当てて、
「お……俺も最後になるかもしれないから、持って帰っておこうかな……?」
 何か袋になるようなもの、あったかな……?
 そんなことを口にし始める。
 渚はそんな高代に、あーっ、もうっ! と、くしゃくしゃと自分の髪をかきあげながら、
「高代〜、俺たちは春も夏もまだあるだろっ。
 持って帰るのは、俺たちも、来年の夏にするんだよっ。」
 噛み付くように怒鳴った。
 思わず高代がタジタジになって一歩二歩後退する──その矢先、ドン、と背中が背後の男に当たった。
 すみません、と慌てて見上げた先──山田が穏やかに……けれど少し苦笑を混ぜて笑って立っていた。
「高代、渚の言うとおりだぞ。お前らにはまだ先がある。──甲子園の土を『思い出』にするのは、それからだ。」
 そのためにも、がんばれ、と笑う山田に、高代はコクリ、と頷く。
「そうだよな……うん、俺たち、来年もがんばらないとな。」
 うんうん、と自分に言い聞かせるように何度も頷く高代に、だからそう言ってるだろ、とあきれたように渚が返す。
 そんな彼に、お前ががんばらないといけないんだよっ、と蛸田や上下が笑って突付いて──、そんな後輩達に、山田は穏やかな笑みを広げる。
 視線をずらすと、丁寧に砂を取り上げる里中の姿。
 その隣にしゃがみこんだ微笑が、カバンの中から見つけ出したらしいスーパーの袋を広げて、同じように手の平で土を集め出す。
 そんな彼らを横目に、岩鬼が呆れたように、やってられんわいと、大げさに首を振っている。
──甲子園の、思い出。
 自分たちの青春であった土を持って帰りたいという気持ちは、分からないでもなかった。
 せっせと土を集めている里中を、山田は柔らかな眼差しで見つめた後、ドサリ、と自分のカバンを落とした。
 そんな山田に、高代がキョトンと目を瞬き、
「山田さんも土を持って帰るんですか?」
 そう尋ねると、彼は短く、いや、と答えると、そのまま視線を里中に向けた。
「里中。」
 呼びかけると、土まみれになった指先を無言で見下ろしていた里中が、顔を上げる。
「山田?」
 彼の隣に置かれたビニール袋は、まだ三分の一も埋まっていない。
 思ったよりも土が固くて、手間取っているようにも見えた。
──スパイクで土を抉ればすぐに掘れるだろうに、わざわざ爪もない指でスパイクで固められた土を掘り返そうとするから、大変なのだ。
 最初から土を持って帰るつもりなら、スコップを用意すればいいのにと、苦い色を滲ませながら──、
「ちょっと待ってろ。」
 ただそれだけ告げて、一番近いマウンド上で丁寧にトンボをかけていた整備員にクルリと体を向けた。
「……え?」
 突然、マウンド上向けて走り出した山田に、里中は目を瞬くが、彼を追って視線を向けた時にはすでに、彼はマウンドを均していた男に何事か頼み込んでいるところだった。
 なんだ、一体? と、首を傾げる里中に、
「里のためによ、スコップでも借りに言ったんじゃねぇづらか。」
 ゴロゴロと足元でボールをもてあそびながら、殿馬がそんなことを言う。
 確かに、山田さんならそれもありうる、と頷く高代や渚たちの後輩コンビの台詞に、岩鬼は片目を瞑って嘆かわしいと首を振る。
「自分の分のビニール袋でも貰いに行ったんちゃうか……恥知らずばっかで、恥ずかしいわい。」
「なんだよ、本当は岩鬼も欲しいんじゃないのか〜?」
「サト、おんどれには、ウィニングボールっちゅうのがあるやろが。」
 それで上等じゃいと告げる岩鬼に、それとこれとは別なんだよと言い返して、里中はマウンド上の整備員に何か説明している様子の山田の背を見つめる。
「でも、本当になんだろう?」
 待ってろ、と言うから、待ってるけど。
 首を傾げる里中に、微笑も土を掘り返す手を止めて、山田の行動を見守る。
「さぁ〜? なんだろな? トンボを借りて、それでサックリと土を掘り返すってヤツか?」
 それなら確かに便利だし早いけど、情緒はないなぁ、と呟く微笑に、言えてると里中が笑い返す。
 突然の山田の行動の意味が分からず、ただ見守る一同の前で、山田は帽子を取ってペコリと男に頭を下げたかと思うと、そのままクルリとこちらを振り返り、
「里中っ! やったぞっ!」
 満面の笑顔で駆け寄ってくる。
「……?? 何がだ?」
 山田が何を頼み込んだのか分からない里中は、そのままキョトンと目を見張るが、常になく俊敏な動きで駆け寄ってきた山田は、里中に立ち上がるように促す。
 何が何なのか分からないまま立ち上がる里中の両肩をしっかりと握り締めて、山田は興奮した面持ちを隠せない様子で、マウンド上の男を一瞥する。
 マウンドを均していたトンボに体重をかけるようにして、持ち手に腕を乗せている男は、帽子の縁の下から、穏やかに笑ってこちらを見ている。
 その顔には、覚えがあった。
「……お、藤村甲子園。」
 思わず顔をあげてそれを確認した微笑の呟きを耳に入れつつ、里中は山田の顔を仰ぎ見る。
「山田、一体何がどうしたんだ?」
「いいから、さぁ、急ごう。」
 強引に腕を取られて、そのまま引っ張られかけて──山田はそこで一度動きを止めると、屈みこんで地面に置かれていた入れかけた土の入ったビニール袋を持ち上げる。
 ほんの少ししか入っていないソレを見て、
「すまん、里中。」
「……へ?」
 先にそう謝ってから、ソレをひっくり返して、どさどさ、と土を落としてしまう。
「って、山田っ!? 何するんだよっ!?」
 驚いたように目を見張る里中の前で、彼は落とした土をスパイクで均すと、すまん、ともう一度謝る。
 けれどその顔にも声にも、なぜか喜びの色がにじみ出ていて──一体何なのだと、里中は困惑するばかりだ。
 これが岩鬼や渚がやったことなら、問答無用で蹴りを入れてバットでぶっ叩くくらいのことはするが、相手は山田だ。
 彼が自分のためにならないことをするはずがない。
 空になったビニールを持ったままの山田に引っ張られて、何が何だか分からないうちに、ダイヤモンド内に入る。
 グイグイと腕をとられたまま引っ張られる先には、マウンドを均している途中で作業を中断された男の姿──本来なら、邪魔をするなと怒ってもいいだろうに、藤村は楽しげに目元を緩ませて、自分の方に向かってくる明訓のバッテリーを見つめていた。
「なるべく早くすませてくれ。」
 マウンドの下で脚を止める山田に、藤村はそう言う。
 山田はそんな彼に、すみません、とペコリと頭を下げると、里中の腕から手を放し、彼の肩を軽く叩いた。
「里中──ここだ。」
 にじみ出る喜びの色を隠そうともしない声音で告げられ、里中は山田が示すマウンドを見下ろす。
 まだプレートの周囲の山を綺麗に均している最中だったのか、白いプレートは試合中のまま、土にまみれてくすんで見えた。
「……うん。」
 何のことか分からなくて首を傾げながらも山田に頷く里中の前で、彼はマウンドの上にしゃがみこむ。
 そして、先ほど空っぽにしたビニール袋を広げて、
「お前が持って帰るのは、ここの土だよ。──ここじゃないと、ダメだ。」
 自信たっぷりにそう言い切って、自らの手の平で土を集め始めた。
「──……って……、やまだぁっ!!?」
 思わず素っ頓狂な声をあげて叫んだ里中は、呆然と山田を見下ろし──それから慌てたように、山田の行為を見下ろしている藤村を見上げた。
「えっ、で、でもそれって……いいんですかっ!?」
 だって、マウンド上の土だぞっ!?
 そう目を見張って叫ぶ里中に──今までベンチの前の土を集めて帰る選手を見たことはあっても、フェアウェイ上の土を持って返った人を見たことはない。
 それって、アリなのかと、心配になるのも仕方ない。
 慌てるようにそう叫ぶ里中を、自分の肩越しに山田は見上げると、
「さっき、藤村さんに、ここの土を貰っていってもいいかって聞いたんだ。
 お前が三年間の思い出に土を持って帰るというなら、それなら、この甲子園の、マウンドの土以外には……ありえないだろ。」
 満面の微笑を口元に貼り付けて、な? と里中に笑いかける。
「…………山田………………。」
 さぁ、と促す山田に、里中は一瞬言葉に詰まったように唇を引き結んだ後──ほろり、と花開くように笑って、頷いた。
「……あぁ──、うん、サンキュ。」
 はにかむような笑みで、里中はストンと山田の隣に腰を落とすと、自らも手を伸ばして、山田の隣でせっせと土を掻き集め始める。
 そんな2人を、藤村は浮かんでくる笑みを消すことなく、面白そうに見下ろす。
 そこへ、づらづらと後ろ手に何かを持った殿馬が、ダイヤモンドの中に入ってきて、そんな藤村に向けてヒョイと頭を揺らすと、
「おぅよー、お兄さんづら。俺もそこの土を貰ってもいいづらか?」
 チョイチョイ、と足先でセカンドのあたりを示す。
 そんな殿馬に、ギョッとしたように顔を上げた里中へ、殿馬は器用にウィンクを飛ばし、
「俺の青春は、セカンドづらぜよ。」
「……殿馬ーっ!?」
 素っ頓狂な声をあげる岩鬼を気にも留めず、殿馬は藤村を見やる。
 頷いた藤村が楽しそうに笑うのに、ニヤリ、と笑い返して、殿馬はそのままセカンドの守備位置に歩いていき──なぜかそこをす通りした。
「って、おい、殿馬? お前、どこの土を取るつもりだよっ?」
 おいおい、と、驚いたように体を起き上がらせて叫ぶ微笑に、明訓のベンチに居たチームメイトだけではなく、グラウンド整備に借り出されていた連中も揃って動きを止める。
 この場の視線を一斉に受けながら、殿馬はピタリ、と置き去りにされたままだったセカンドベースの前に立つと、ぽい、とそれを取り除いた。
 かと思うや否や、そこにヒョイと胡坐をかいて座り込み、どこからともなく出してきたスコップで、ざく、と掘り始める。
「セカンドベースの下かよ、おいっ。」
 思わずガクゥッ、と全員で突っ込むのに、殿馬は満足したように土を袋に入れながら、
「セカンドっちゅうたら、セカンドづんづら。」
「た、確かにセカンド……だけどな。」
 まさかそう来るかと、呆れたように呟く里中に、まったくだと山田も苦い色を噛み殺せない。
 さらにそんな彼らのすぐ近くでは、クックッと笑いを噛み殺す声まで聞こえた。
──が、そこで話は終わるはずもなく、ダイヤモンドに入った三人を見ていた一つの影が、動き出した。
 そう……岩鬼である。
 殿馬までもが動き出したのなら、なんだかんだ言いながらこういう「行事」が好きな男が、黙ってみているはずはない。
 微笑はベンチ前の土を掬い上げていた手を止めて、カチャカチャと前進し始める岩鬼を見上げて、
「岩鬼はサードベースの土を取るってか?」
 俺はレフトか……どうしようかね、と、土の入った袋を見て眉を寄せる。
 そんなくだらない悩みに頭を悩ませる微笑の隣を、岩鬼はスルリと通り抜けていく。
 その彼の手には、どこで用意していたんだと思うようなスコップと袋が握られている。
「……やっぱりキャプテンも、土、欲しかったんじゃないですか……。」
 思わず胡乱気な目で岩鬼の背を見送る後輩達の見立ては、正しいことである。
 岩鬼は無駄に胸を張り、颯爽とダイヤモンドの中に踏み込む。
「なんづら。」
 取り終えたセカンドベースを戻す殿馬が、結局おめぇも取るづらかよ、と続けるのを無視して、岩鬼はクルリと左を向く。
「って……おい、岩鬼?」
 てっきりマウンドの傍を横切って三塁ベースに行くとばかり思っていた里中と山田は、思わず腰を浮かしかける。
 岩鬼はそのまま、ホームベースまで歩いていき、四角のバッターボックスに足を踏み入れ、ザッ、と土を均すようにしてバッターボックスに立った。
 まるで今から球を打つかのような体制で、岩鬼は下から見上げるようにしてトンボを手にしている藤村を見据える。
 その視線に、思わずピクン、と反応した藤村に向かって、岩鬼はハッパの花を咲かせて、胸を張って宣言する。
「わいの青春は、ココやでぇっ! 藤村はんっ! わいはここの土やっ!!」
 豪打・男岩鬼。
 そう言い切り、スコップを握り締める岩鬼に、やんややんやの拍手を送ったのは、ベンチに座る大平監督ただ一人。
「さっすがキャプテンだがや。自分の一番の見所を、よぅく知ってるだや。」
 うんうん、と頷いて感心する大平監督に、そういうものなんですかと、眉を落として渚たちが監督と岩鬼を交互に見交わす。
 右打者のバッターボックスに、さっそく大きな体を縮めてしゃがみこむ岩鬼に、里中と山田は視線を合わせた後、
「………………じゃ、山田は左バッターボックスだ。」
 あははは、と里中がわざとらしく、岩鬼に聞こえるように笑ってみせた。
 するとすかさず、ちまちまとバッターボックスの土を掘り返していた岩鬼が顔をあげ、
「やぁーまだっ! おんどりゃ、わいの真似なんてするんやないで!」
 そう叫ぶ。
 その言葉には、セカンドからベンチの前に戻る殿馬が、突っ込んでくれた。
「おめぇよー、自分の『思い出の土』を持って帰るっちゅうことがそもそも、やーまだの案づらぜ。」
 殿馬がそういいながらダイヤモンドを出ると、微笑がそれと入れ替わるように、ファールラインを越える。
「俺も、ちょっくらレフトまで出張しますかね。」
 ──やっぱりアソコが、自分にとっての「甲子園」の場所のような気がするから。
 そう言って駆け足に走る微笑に、づら、とだけ答えて、殿馬は口を縛ったビニール袋を、ポイ、と開け放したままのカバンに向かって放った。
 放物線を描いた中身入りのビニール袋は、見事にカバンの中に納まる。
 おおーっ、と、思わず声をあげて拍手をした後輩達の前を、何でもない顔で通り過ぎ、殿馬はドスリとベンチに腰掛けた。
 視線の先では、里中と山田がビニール袋一杯に土を取り上げ、ペコリ、と藤村に向かって頭を下げているところだった。
 山田が手渡す土を受け取って、里中は嬉しそうに頬をほころばせる。
「──サンキュ、山田。」
 ニッコリと微笑み、里中はビニール袋の口を閉ざす。
 その笑顔を向けられた先で、山田は照れたように緩くかぶりを振った。
「いや、里中……。礼を言うようなことじゃないよ。」
「──……山田……。」
 万感の思いを込めて、里中はそのビニール袋を握り締めながら、彼の名を呼んだ。
 うん、と頷く山田に、里中はゆっくりと視線を上げて、バッターボックスで土を集めている岩鬼に目を留めた。
「山田はいいのか、甲子園の土?」
「いや……俺は…………。」
 山田はそう言い掛けて──あげかけた手を止め、里中が視線をやっている先……マウンドから見下ろせる、小さなバッターボックスを見た。
 四角いバッターボックスが左右に一個ずつ。
 中央にはいつも目の前で見慣れたホームベース。
「──……そう、だな。」
 視線を戻すと、嬉しそうに頬を染めて笑う里中の顔と、彼の手に握られた甲子園の──「里中のマウンドの土」。
「俺も……、それじゃ、ホームベースの土を貰っても、いいですか?」
 なぜか照れたように笑ってそう尋ねる山田に、藤村が好きにしろと頷くと、
「それじゃ、予備のビニール袋を持ってきてやるよ。」
 里中がヒラリと身を翻して、ベンチの前においてあるカバンに向けて走り出す。
 その背を──「1」という背番号がこの上もなく似合う背中を見つめて、山田は目を細めた。
 そして視線を横へずらし、自らもホームベースへと向かって歩き出した。

 里中の甲子園の「思い出の地」は、マウンド上に他ならない。
 俺はそう思ったから、彼にそこの土を持って帰らせてやりたいと思った。
 そして──里中の思い出の地が、そこだと言うなら、山田が選ぶ「思い出の地」、は。

「山田っ!」
 ホームの上に立ってマウンドを見つめると、ベンチから駆け寄ってくる里中の姿。
 満面の笑顔を浮かべて駆け寄ってくる彼に、──やっぱり里中は、マウンドに居てくれたほうがいいなと、山田は微かな苦い色を覚える。
 ……次に里中とバッテリーを組めるのは、いつの日になるのだろう?
 そんな、言葉にもならない、漠然とした不安が、ふと胸を掠めたから、余計に浮かんだ笑みは苦い色を刷いた。
「なんじゃい、やぁーまだ。おんどれもわいの真似をするつもりかいな。」
 たっぷりと土を詰め込んだ袋を手に、立ち上がった岩鬼に、山田はそうだな、と笑う。
 山田にビニール袋を手渡した里中は、立ち上がって自分たちを見下ろす岩鬼を見上げて、真似をしたのは岩鬼のほうだろ、と呆れたように零した。
 誰が真似しぃや、と顔を顰める岩鬼に、お前がだ、とまたいつものようなやり取りを始める二人を横手に、山田は浮かんでくる微笑を堪えきれないまま、その場にしゃがみこんだ。
「さ、急がないと、日が暮れるな。」
 みんなも、待たせっぱなしだと、そう口にしながら土を集め始める。
 なんども手で均し、ホームベースを清めた手で、自分が死守してきたホームベースを見つめながら、せっせと土を掻き集め始める。
「俺も手伝う。」
 里中も、山田の隣にしゃがみこんで、慌てたように手を貸した。
 岩鬼は、こっちが呆れたと言いたげに腰に手を当てて、
「何をすんのも一緒かいな。」
 そんなバッテリーを見下ろしたが、それ以上何も言わず、ひょい、と肩を竦めた。
 この2人が常に一緒にイチャイチャしているのは、どうせいつものことだから、と──後は後ろを振り返りもせず、岩鬼もまた、ベンチに向けて歩き出した。
 その背中から、背中が痒くなるような会話が聞こえてきて……、
「やってられんわい。」
 岩鬼は、そんな言葉を零すのであった。













「あ、山田。その土、仕舞うのはちょっと待ってくれ。」
 手を伸ばして、里中は慌てたように自分のカバンの中から、先ほど仕舞いこんだばかりの土を取り出すと、シュルシュルと口を解く。
「里中?」
 そろそろ帰るかと、一同がカバンを担ぎなおす中、突然そんなことをしだす里中に、どうしたんだと山田が首を傾げる先──、里中は自分の土を入れた袋を開いて、
「分けてくれ、お前の土。」
 ココに、と──、そう言って笑う。
 開かれた里中が持つマウンドの土も、まだ袋の口を閉じていない山田が持っているホームベースの土も、どちらも「甲子園の土」には変わりない。
 けれど──その手で土を集め、その手で袋の中に入れた人間だけが知っている。
「……いいのか、里中?」
 軽く目を見張って尋ねる山田に、当然だろ、と里中は頷く。
「俺のマウンドの土だけじゃ、それは──甲子園の土じゃないだろ?」
 お前が居たから、俺はここまで来たんだ。
 そう言って笑う里中に、山田も同じように笑い返した。
「そうか……そうだな。」
 頷いて、山田も里中と一緒に集めたばかりの土を見下ろした。
「それなら、里中……お前の土も、一掴みでいいから、分けてくれるか?」
「俺のも?」
「あぁ。」
 目を瞬いて問い返す里中に、もちろんだと山田は頷いた。
 2人は間近で視線を交わしあい、ニッコリと微笑みあう。
 そしてそれぞれ、自分の袋の中に手を突っ込むと、一掴み土を握り取り、それをお互いの袋の中に向けて、ぱさり、と、落とした。
 そのまま再び間近で視線を交わしあい、穏やかに笑う。
 握りしめた袋は、先ほどよりも重く感じる。
 先ほどよりも──暖かく。
 里中は先ほどよりも色も質も増えたような気のする土を見下ろして、満足げに微笑み、その袋に口をしようとした刹那。
「なんじゃい、土の交換って、アホちゃうか。」
 ヒョイ、と、頭の上から伸びてきた手によって、袋を取り上げられる。
 がばっ、と見上げて、里中はそれを目の辺りまで掲げる岩鬼をキッと睨みつける。
「何するんだよ、岩鬼っ! 返せよっ。」
 手を伸ばすが、巨体の岩鬼が目線まであげた袋に、届くはずもなく──里中はキリ、と唇を噛み締めて、スパイクのまま岩鬼の足を蹴り付けるようにして上ってやろうかと、乱暴な考えを抱いてみた。
 そしてその考えを実行しようとするよりも早く、
「ほれ、サト。」
 目の前に、ぶらん、と袋が返ってきた。
 ──どう見ても、先ほどよりも質量が増えた状態で。
「…………………………岩鬼…………お前、これに何を入れた………………?」
 思わず目を据わらせて、目の前にブラリンとぶら下がった自分の土を睨みつける里中に、岩鬼は当然のように答えてくれた。
「そりゃ決まっとるやろ、サト。
 おんどれも、これを見て、わいのようなスーパースターと野球をできたちゅうことを、思い出せや。」
 ほれ、と、揺らしてくれる岩鬼に、フルフル……と里中は肩を揺らす。
 つまり、それは。
「…………おっまえ、俺と山田の土に、自分の土を混ぜやがったなっ!!?」
「光栄やろ。」
 きっぱり言い切る岩鬼に、何が光栄なものかと、里中は激情のまま、目の前の足を蹴り付ける。
「なっ、何するんじゃいっ!」
「何するじゃないだろ、何するじゃっ! それはこっちの台詞だっ!!」
 叫ぶ岩鬼に叫び返す里中。
 そんな、良く見かけた光景に、ヤレヤレと後輩達は溜息を一つ。
 こんな光景も、もう帰った後には見れなくなるんだなぁ、と、そんな感慨深さもひとしお、込み上げてくる。
 なので、なんとなくそのまま見守ってしまったりする。
「全く、信じれらないことするな、岩鬼はっ!」
 プリプリ怒りながら、里中は彼の手から自分の土を取り返そうと眦を吊り上げたまま、キッ、と岩鬼を睨み挙げて──、彼の手に、何も握られていないことに気づいた。
 袋を取りあげるために伸ばされた手は、空を掴み、そのまま宙をさまよい……、
「…………岩鬼、俺の袋は?」
 まさか落としたのかと、辺りを見回すが、土の上にも見当たりはしない。
 なら一体、どこに飛んだんだと、慌てて里中が見回した先──山田が、苦笑を滲ませた表情で、あっち、と指先で示してくれた。
 その指先が指し示すままに視線をやり……、
「俺の砂ー。」
「づらー。」
 いつの間にか里中の袋を持っていた微笑と殿馬が、そこに向けて土を一掴みずつ入れていた。
「………………………………………………………………。」
 サラサラサラ……と、あっという間に質量の増した袋が見て取れて、里中はガックリと肩を落とす。
「……なんでお前ら…………俺の土に…………。」
 はぁ、と溜息を零す里中の前に、微笑が混ざり混ざった土を寄越してくれて、
「ほら、智。
 明訓ナインの甲子園の土。」
 満面の笑顔で、そう告げてくれた。
 里中は、そんな彼の台詞に、はぁ、と溜息を一つ零した後、しょうがないな、と苦さを含んだ笑みを浮かべた。
「サンキュ。大事に瓶に入れて、棚にでも飾っとくぜ。」
 受け取った土の入った袋は、ズッシリと重く、濃い色を宿していた。
 それを太陽の光に透かすように翳してから、里中はクルリと袋の口を閉じる。
 その後、それをタオルで包んで、カバンの中に仕舞いこむと、重みを増した気のするカバンを担いだ。
「すみません、お待たせしました。」
 監督に声をかけると、彼は鷹揚に頷いて、行くだがや、と言い置いてゆっくりと歩き出した。
 試合が終わってからどれくらい経ったのか──ようやくゾロゾロと立ち去る明訓ナイン達に、整備のおじさんたちはチラリと一瞥を寄越した。
 そのおじさんたちに目礼を返し、マウンドに視線をやるが、トンボを器用に動かして整備中の藤村は、、一瞬たりともともこちらに視線を向けなかった。
 せめてもう一度、礼を言いたかったんだけどと顔を曇らせる山田が足を止めると、それに倣ったかのように里中も岩鬼も殿馬も微笑も、通路の入り口でピタリと足を止めた。
 そして揃って、今から立ち去る甲子園球場を振り返る。
 いつも振り返った先は、熱気と溢れる人で一杯だった、甲子園。
 けれど今は、ここを立ち去る自分たちの心を代弁しているかのように、ただ、静か。
「俺たちの──三年間、か。」
 誰にともなく、懐かしむように呟かれた言葉が、サラリ、と風が浚っていった。






「今度はプロとして、帰って来るでぇっ!!」






 自信満々に告げる岩鬼に、四人は苦い色を刷いた笑みをこっそりと交し合って……、
 ──いつかきっと、ここへ帰ってこれる日があることを、胸のうちで、祈りあった。

















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プロ野球編の2巻だったか3巻だったかの、一年目オールスターの話の時、里中の自室の棚の中に、「甲子園の土」って書かれたビンがあったんです。
里中、持ち帰ってたんだ〜、と思うと同時、それじゃこの土って、いつの土なんだろう、って思ったんです。(同時に、どうして飾ってあるウィニングボールが土佐丸とのなんだと思わないでもない。きっと3年間で一番嬉しい勝利だったのだろう)

で、明訓らしい「甲子園の土」って言ったら、こんな感じかな、と、想像してみました。

ふふふ……本当にそういう、妄想を掻きたてるような小物を書くのがうまいなぁ〜、と思います。