困難に見舞われれば見舞われるほど、それに立ち向かう力が沸いてきていた──いつも。
目の前に立ちはだかる壁が大きければ大きいほど、それを超えるために限界以上に努力をしてきた。
けれど。
「…………まだ高校生でしかない君に、このことを伝えるのは、非常に辛いところなんだが──。」
ツン、と消毒薬のする部屋。
白いカーテンと、白い壁、白い天井。
目の前の、白い椅子に座る男の、白い白衣。
同じ白でも、自分たちが着ているシャツの白とは違う──「白」に埋め尽くされた部屋。
白い紙を手にして、無機質な机の上に置かれた茶色の封筒を持ち上げて。
「お母さんは、癌の疑いが濃厚だ。」
その人は、そう、告げた。
ぽとん、ぽとん、ぽとん──。
小さな音を立てながら、落ちていく雫は、透明な色だけれど、それが落ちる前のパックの中身は、黄色に色づいている。
ぽとん、ぽとん、ぽとん。
一定感覚で、ゆっくりと落ちるソレを、見るとも無しに眺め続けていた。
「2時間くらいで終わるから、このあたりになったら、ブザーで呼んでね。」──若い看護婦がそう言った場所まで、あと、半分。
ぽとん、ぽとん──。
音がするはずもないのに、耳元でずっとこだまする、落ちる音。
それが何の音なのか、知っているような気がしたけど、答えがほしいわけではなかった。
ただ少年は、明るいばかりの窓の外に背を向けて、薄暗い室内で、ジ、と白いベッドの上の、青白い顔色をした女を見ていた。
気づけば、こうして彼女の顔を見つめるのは、ずいぶん久しぶりだった。
目の前の、大好きなことに命をかけて──ただがむしゃらに、やってきた。
そのツケが、とうとうやってきたのだと、そう思えば……ストン、と、決断は早かった。
悩むことなんて何もない。
いつかやってくると思っていたことが、今、目の前に来ただけの話だ。
それも──最悪の形で。
「……ごめん、母さん。」
この部屋で二人っきりになってから、何度つぶやいたか分からない一言を、また、つむいだ。
それでも帰ってくる言葉はない。
目の前の人は、疲れた体がようやく取れた休息に、ただずっと──眠り続けている。
「すぐに手術に取り掛かりたいのは山々だが、君のお母さんは、ずいぶん無理をなさったんだろうね──今のままじゃ、手術自体に体力が持つかどうか……。」
声が、耳に、痛い。
眩暈を覚えたような気もする。
ただ、必死で、服を握り締め、医師の声を、一文字一句漏らさずに聞くことばかりに、意識を集中した。
お母さん、最近、どこか痛そうにしていなかったかい?
そう聞かれて、言葉に詰まった。
最近……母さんと一緒に居た「最近」は、いつのことだろう?
土曜日も日曜日も、母は仕事に出ていて居ない。
あまり働きすぎると駄目だよと言っても、これくらい大丈夫だと、笑う顔しか思い浮かばなかった。
一年のほとんどを、仕事場ですごす母。
一年のほとんどを、学校の合宿所で過ごす息子。
たった二人きりの母子なのに、もしかしたら母の体調が悪いことは、息子の自分よりも──母の仕事場の人のほうが、詳しいかもしれなかった。
事実、母が倒れたときに付き添っていた男性は、「冬くらいから、体調が悪そうにしていた」と教えてくれた。
そのとき、君はどこにいたのかと聞かれて──高校の合宿所だと、素直に答えた。
母とは、日曜日くらいしか会っていなくて、しかもそのときも、ほとんど母は仕事のためにいなかった、と。
──さぞかし先生も彼らも、なんて親不幸な息子なのだろうと思っていることだろう。
おれだって、そう思う。
「──……母さん……、ごめん……。」
どうしようなんて、悩むことはない。
答えは、たった一つしかないのだから。
ポトン、ポトン、ポトン──落ちる点滴の音が、まるで目の前の華奢な母の命が落ちていく音のような気がして、少年は彼女の手のひらを、ギュ、と握り締めた。
ヒヤリと冷えた手のひらを暖めるように──自らの命を分け与えるかというように、ただ強くその手を握り締めて……彼は、己の額をその手のひらに押し付けた。
痛い。
泣きそうに、痛い。
──でも、泣けない。
泣いてはいけない。
やらなくてはならないことがあるから。
まだ、なにも、していないから。
脳裏に灼熱のように刻まれた、激しい感情はすべて、胸の痛みの前に消えていく。
熱い太陽、燃え上がる情熱、高まる鼓動、苦しみの中から生まれる感動と激情。
あの場所でしかめぐり合えないたった一つの者たち。
自分の命だと、自分のすべてだと、そう──言えた形。
でも。
どちらも、今しかできないことだけど。
その重さが──違うのだ、と。
……比べることすら、痛くて。
「比べるなんて……、できない。」
してはいけない。
たとえ、おれの命と引き換えにしてもいいと思うくらい、大切な野球でも。
それでも。
答えは、ひとつしか出せないなら。
「──母さん……一緒に、戦っていこう。」
今度は、舞台を、変えて──ともに、また、戦おう。
そう、彼女の手のひらを握り締めながら、呟くしかなかった。
+++ BACK +++
小ネタ〜。
パラレル「UN BARANCE」の元ネタとなった話が出てきたので、アップしてみた。
短い。
そしてこれ以上話が続けられない!(笑)
私はなぜか、加代さんは駆け落ちしたに違いない! とか思ってます……(本当にどうでもいい話だ……)