青春の全てをかけてきた「高校野球」が終わり──秋の色が濃厚になってきても、まだ心の中の、ポッカリと開いた……なんとも表現しがたい穴は、無くなることがなかった。
けれど、そうやっていつまでもぼんやりしていることは出来ない。
すでに時は高校3年の二学期──大学を受験するにしろ、就職するにしろ、もうすでにラストスパートに入っているような時期なのだ。
それまでの間、ずっと部活に全てを注いでいた「部活組み」としては、一刻も早く遅れを取り戻さなくてはならない。
「差し当たっての勉学の邪魔は……コレか。」
顎に手を当てながら、小林は広い自室の一角を占める本棚を見やった。
ずらりと並ぶ本棚のタイトルのほとんどは、「野球」の見出しのついたものばかり。
こんなものが、参考書と一緒に並んでいるから、勉強中に、ついうっかり野球雑誌などを開いて中断してしまう──なんていうことが起きるのだ。
小林は小さく息を零して、無造作に本棚に手をかけると、背表紙を指に引っ掛け、そのままバサリ、と数冊、手元に落とした。
これから大学受験に向けて、ラストスパートをかける前に、本棚から無駄な──いわば、勉強の邪魔になりそうな気を逸らすもの──を省こうと、そう思ったのである。
野球のルールブックも、ずいぶんと読み込んだプロ野球選手が書いた手記も、何もかも、受験生には必要がない。
気分転換にキャッチボールや素振りをするつもりはあったが、本格的な野球は受験が終わるまではお預けだ──だから、自室の本棚のほとんどを占める野球の本を、無造作に床に落としていく。
その中……投手の連続写真が掲載された大きな写真ブックの隣から、どさ、と、一際重い音を立てて落ちる本があった。
いやに鈍い音がしたと見下ろした先──硬い表紙の、味もそっけもない、金箔の箔押しの文字が飛び込んできた。
「東郷学園 中等部 卒業アルバム」
「……こんなところに仕舞いこんでたのか……。」
無表情にそれを見下ろして、小林は懐かしむように目を細めた。
これを貰った卒業式の日に、「どうせみんな、高等部に一緒にあがるのに、こんなのいらないよなー」と笑いあっていた品だ。
とは言うものの、様々な理由から外部受験するものも居ないわけではなかったので、そういう「同級生」と連絡を取り合うには、必要になってくる。
けれど、中学を卒業して丸2年と半年──小林は、この卒業アルバムを一度も開いたことはなかった。
貰ったときに、クラスの人間と一緒に見たのが、最初で最後だ。
卒業式から帰ってきた手でそのまま本棚に放り込んで、後は放りっぱなしにしていたのだろう。
取上げると、うっすらと埃が積もっていた。
隣の写真ブックには、埃なんて積もっていないのに、ずいぶんな差だと、小林はそれを開く。
中学時代の思い出は、この高校時代のソレよりも、ずっと淡くて浅い。
一際強く覚えているはずの「西南中学との試合中の事故」ですら、今はひどく遠く思えた。
中学時代に思い出になるようなものが、何もなかったわけではない。ただ、波乱万丈に満ちたあの頃よりも、今のほうがずっと、濃厚に強く……思い出に残っているだけだ。
数多くの強豪との戦い。
元明訓高校監督【徳川】と目指した「打倒 明訓」への道。
思い返せば、アメリカへ留学していた1年よりも、帰ってきてからの2年間のほうが、ずっと濃厚で充実感に満ちていた。
──もしかしたらそれは、「ライバル山田」への打倒の思いを抱く人間が、自分ひとりではなくなったことへの、喜びでもあったのかもしれない。
「思えば、あの事故が始まりだったのかもしれないな……。」
口に刻んだ微苦笑は、苦い色も喜びの色も含んでいた。
試合中に起きた事故──小林の両目の視力が極端に失われたことを、当時の誰もが嘆いた。
未来有望な東郷のエースを失ったことへの憤りは、全て山田に向かったのだと──後から妹に聞いて知っている。
けれど、そんな周囲の不幸を慰める声よりも何よりも。
「──……アレが、常勝明訓の始まりだった……。」
あの事故がきっかけで山田は鷹丘中学に入り、岩鬼と殿馬と出会った。
そして。
「──里中も、また…………。」
*
中学2年の春──名実ともに認める東郷中学野球部のエースであった俺は、正直に言うと、少し天狗になっていたのだと思う。
小学校の時も投手をしていたと言うチームメイトも居たが、誰も俺の速球の前には、太刀打ちできず、次々に内野手や外野手に転向していった。
とは言っても、いくら中学野球とは言え、エース一人で野球部が成り立つわけではない。
もともと東郷中学の野球部は、県下でもそれなりに名前が売れていることもあって、控え投手が数人いるには居た──が、俺がマウンドに立つ限り、彼らの出番は一度も無かった。
目下のところ、俺のライバルと言えば「鷹丘中学の長嶋」「川越中学の不知火」くらいじゃないだろうかと、いつも県大会の上位に名前が出てくる投手を思い浮かべるくらい、俺は──凄かったのだと、思う。
けれどあの日。
絶好調だった俺を打ち下したのは、たった一人の少年だった。
──西南中学の山田太郎。
後に、「常勝明訓」と謡われた高校の「明訓と言えば山田太郎」だとまで言わしめるほどの男である。
だが当時は、まだ名前も何も売れていなくて、弱小西南の捕手をしているだけの──どん、と体の大きい男だった。
「デブだから動きが鈍くて、ルールも知らずにホームベースの上に座り込んでる。」
東郷中学の誰もが、そう言って軽口を叩いた。
西南なんて眼じゃない──そう思っているからこその、軽口だったと思う。
けれど、俺は違った。
多分、監督も気づいていたと思う。
山田の野球センスの良さ──彼は、確実に「俺」を捕らえているのだということにも。
だって信じられるか? 投げればノーヒットノーラン、打てばホームランは確実。
その俺が、投げればホームランを打たれ、打てば裏を書かれたような球でシングルヒットがせいぜい。
もっとも、西南のピッチャーがたいしたことがないおかげで、シングルヒットが積み重なって点数を取れることは取れたが──正直な話、監督もこの試合展開には、渋い顔を崩すことはなかった。
守備の面でも打撃の面でも、申し分のない東郷中学が、押されることはなかったが──それでも、チームメイトがベンチで軽口を叩くように、満足がいける試合展開ではなかった。
それが、西南のたった一人のキャッチャー「山田太郎」のせいであることも──俺は、知っていた。
正直に言うと、山田をマークしているどころか、侮ってすらいるチームメイトに、苛立ちすら覚えていた。
笑いながらタオルで顔を拭いている内面、「お前等は山田のどこを見ているんだ」と罵りたくなった。
そうするほどの試合ではないと分かっていたからこそ、俺はただ黙っていただけで。
今年は、西南に勝てる。
けど、山田太郎がいる限り、来年はどうなるか分からない。
それが、俺の率直な意見だった。──いやもしかすると、中学野球が9回まであったなら、今年の戦いがどうなったのかすら、分からない。
……もっとも、9回まであったとしても、俺は結局、完投できなかったのだから、その末を見届けることはできなかっただろう。
運命の7回裏。
俺は、本塁を掛けた「山田」のスパイクで、両目を傷つけ、視力を極端に落とすことになった。
騒然とした周囲には気づかず、ただ俺は……怖かったのを覚えている。
眼が熱くて、心配そうに声をかける山田の声も、その山田を押しのけるチームメイトの声も──大丈夫だと、冷静にそう返す一方で、ひどく怖くて、震えそうになったのを覚えている。
そんな俺を置いて、だから素人はダメだとか、へたくそだとか、そう怒鳴っているチームメイト。
そして。
「小林、立てるか?」
不意に、耳元に落ちてきた声に、ハッ、と顔を上げた先──真っ暗で何も見えない鼻先で、フワリとシャンプーの匂いがした。
この泥と汗に塗れた試合中には相応しくない声と香りがして、
「今、監督が救急車呼びに行ってるから、眼だけ洗い流すぞ。」
そのまま、彼が俺の肩から背中に手を回すのを感じた。
──と同時、一瞬動きを止めた彼が、悔しそうに歯噛みするのが分かった。
かと思やいなや、しなやかな腕も、心地よい香も、一気に遠のき、
「お前らっ! そんなこと叫んでる暇あったら、さっさと小林を運べっ!!」
リン、と良く響く、声が耳元でした。
そのまま、タッ、と彼が走り去る気配。
同時に、動揺もあらわなチームメイトたちが、駆け寄ってくる。
「小林っ!」
「大丈夫か、小林?」
焦った口調の彼らが、先ほど彼がしたように俺の脇に手を入れ、支えるようにして起こしてくれるのに従いながら、鼻先に漂ってくる汗と埃、土の匂いに、顔を顰めた。
俺なんて、今のクロスプレーで泥と血の匂いばかりを発しているのに、なぜかその匂いが鼻につくと感じるのは、先ほどの少年がそぐわない香りをさせていたからだろうか?
軽く体を起こされて、ようやくそこで俺は、先ほど自分に手を差し伸べてくれた少年が誰なのか、理解した。
里中 智
中学に入学した当初、誰よりも小柄な体で、誰よりも闘志をむき出しにして、毎日傷だらけで警戒心剥き出しに叫んでいた少年だ。
誰もが小林を東郷中学のエースだと認めた中、たった一人、最後まで正面からぶつかってきた──「補欠の投手」。
野球部での印象は、とにかく「内野手に変更しろ」という監督の言葉にしぶしぶ頷きながらも、補欠でも投手であることを誇示し続けていた、小柄で負けん気の強い少年だと言うばかり。
先輩達は里中のことを正直、もてあましていたようなところもあった。
けれど野球部から退けば、成績は中の上、体育での運動神経は文句がなく、監督が内野手に転向しろというのが分かるほど俊足で身軽で、体が柔らかくて──、面差しがやわらかく繊細なところから、女生徒から人気があった。
言葉は直球で、頑固で、融通が利かないところもある。けれど、その不屈の精神とくじけない強い心には、正直な話──惹かれるところは、あったのだと、思う。
でも、結局三年間同じクラスにならなかった俺にとっては、「里中智」という人物のことを知るには、あまりにも時間も接点もなかった。
彼は俺のことをただのチームメイトとして──いや、ライバルのチームメイトとして扱い、あまり話すことはなかった。
実際、その時に交わした会話が始めてではないかと思うくらい、里中と話した記憶はない。
声を聞いた瞬間、里中だと気づかなかったのも、おかしくはないはずだ──だって、声だけで里中だと分かるくらい、俺は彼の声を聞いた覚えがないのだから。
そんな彼と、始めて、まともな会話らしい会話を交わしたのは、この事故の後。
病院に運び込まれ、しばらくの入院を義務付けられて、退屈な病室生活の中──時折覚える恐怖に、さいなまされているときのことだった。
このまま一生野球ができなくなるかもしれない。
生まれて始めて抱いたその感情を、「恐怖」以外の名前で何とつけていいのか分からない。
ただ怖くて、絶望にも近い思いが何度も押し寄せた。
母や父、妹にチームメイト。──毎日のように彼らは見舞いに来てくれたけど、四六時中一緒に居るわけではない。
訪れる一人の夜は、シン、と静まり返っていて、ただ怖かった。
このまま俺は、何もできずにただこうして病室で一生を過ごしていくのではないかと、そう思うくらいに。
あの孤独と恐怖は、数年経った今でも鮮明に思い出せる。
そんな、孤独の日々が、何度も何度も訪れていた──そんなある日のことだった。
窓から入る日差しが、少し肌に痛く感じるほど暖かかったから、多分、秋口の昼下がりのことだ。
父は仕事で妹は学校。
母が少し席をはずしている中──かちゃん、とノブが回る音がした。
だからてっきり、母が戻ってきたのだと信じて疑っていなかった。
「母さん、そこのゴムまりを取ってくれよ。」
扉がゆっくりと閉まる音がして、一瞬置いてから、こちらへ近づいてくる足音がした。
ここに入院してから、人の足音には独特のリズムがあるのに気づいていた──とは言っても、誰の足音なのか判断はできない。
ただ、その足音がどこかためらいを含んでいるような気がしたのは、分かった。
そして。
「……母さん?」
その足音の主が、母のものとは違う雰囲気を放っているような──気が、した。
入ってきたばかりの見舞い客は、無言で俺のベッドの近くまでやってくると、す、と動く気配をさせた。
かと思うと、ベッドの布団の上に投げ出されていた手の上に、ぽん、と丸いボールを乗せてくれる。
反射的にキュと握り締めると、慣れた弾力が返って来る──ゴムボールだ。
「サンキュー。」
声をかけて、包帯の巻かれた目を上げ、相手の居るだろう辺りに顔を向けた。
母ではないことは確かだ……その時にはもう、そう確信していた。
なら、看護婦か、見舞い客か。
──いや、そのどちらにしても、声はかけるに違いないだろう。
そう思った瞬間、もしかしたら山田かもしれないと思った。
彼は、俺が入院してしばらくはここに通ってくれていたが、チームメイトと鉢合わせしてから、最後に一度来て、土下座をして謝ってから……来なくなった。
どうしておまえが謝るんだと、そう俺は言ったが──彼の心には、届いていないのか、届いたからこそ、彼は野球を続けるために去っていったのか。
この病室に釘付けの俺には、何もわからない。
もし山田だとしたら、俺は言いたいことがあった。
たくさん、いいたいことがあった。
事故が終わってから、二人で話すことが無かったからこそ、山田とキチンと話したいと思っていた。
彼はきっと、自分を責めているに違いないから。
「…………………………。」
枕元に立った相手は、何も言わない。
けれど視線だけは感じた。
そして相手が、何か悩み、逡巡しているだろうさまも。
俺は無言で相手の視線が感じる辺りに顔を向け、「彼」が何かを言ってくれるのを待った。
その間も、ゴムボールを握り締め続ける。
鈍いような小さな音ばかりが、病室に何度も響いた。
そろそろ……いい加減、母が戻ってくるだろうかと、俺がそう思った瞬間だった。
「──……俺、野球部を辞めた。」
「……………………さと……なか?」
まさか彼が来るとは思わなかった。
そう思って、呆然と声の主の名前を呟いた。
聞こえた声にビックリしすぎたために、彼が何を言ったのか、正直、まるで理解していなかった。
野球部のチームメイトや監督が見舞いに来ていた中に、里中は居なかったような覚えがある。
いや、もしかしたら来ていたのかもしれないが、声を聞いたことはなかった。
その彼が、どうして今、ここに居るのだろう?
しかも──今、何と、言った?
「小林の後に、大山さんが投手になった。」
淡々と、突然語り始める里中の話は、すでにチームメイトたちから聞いて知っていた──が。
「だけど、気張りすぎたんだろうな……すぐに肩を故障させた。」
彼の口から、当たり前のように続けられた台詞には、聞き覚えがなかった。
「……なんだって?」
思わず上半身を起こして身を乗り出した俺を、ただ静かに見下ろす里中の視線を感じる。
──そう言えば、ここ最近、見舞いに来てくれているチームメイトの口が重かったような気がしたが、それが原因だったのだろうか?
大山先輩ががんばってくれているおかげで、なんとか勝ち抜いてると、そう言っていたのは……そういえば、何日までだった?
「──おまえを心配させまいと、誰も言ってなかっただろうけど……、大山さんは今、部活を休んで療養中なんだ。」
なんてことだと、思った。
正直な話、東郷中学の野球部は、攻守ともにそろっているとは言え、俺が居たからこそ誰も投手はしなかった。
俺が入学前までエースであった大山先輩も、俺の速球の前に舌を巻き、自ら控え投手に回ったからだ。
──うぬぼれではなく正直な感想で、俺の速球と大山先輩の球は、比べ物にならない。
そして、その大山先輩も倒れたのだとすれば……東郷中学に居る控え投手は──、
「それじゃ、その後、おまえが投げていたのか?」
今自分の目の前に立つ里中と、一年生の実戦経験もないに等しい投手だけ。
だが、その里中だって、監督に内野手への転向を推し進められて、部活中は一度も投球練習なんてしてはいなかったはずだ。
俺に対抗するために、下手投げの変化球投手になったという話も聞いていたし、その変化球はなかなかのものだと、小平が評価していたのも覚えてはいるが……監督は、「中学から変化球など使わせられない」と、言っていたから、よほどのことが無い限り、里中を使うことはないはずだった。
もともと「下手投げ」自体が、変化球と言ってもいいほど肘に負担がかかる投げ方だ。 監督は、そういう肘に負担がかかる投げ方を、中学時代からするのをひどく嫌っていた。
だから里中に変化球投手としての実力があったとしても、監督は俺が居る限り、里中に投げさせることはなかったはずだ──高校に入るまで、里中を温存させるように。
さすがに、投手が実践経験のない一年生に及んでは困ると、そう思ったのだろうか? 監督が里中を選ぶなんて、よほどの事態じゃないか。
内心の俺の焦りに気づいているのかいないのか、里中はあっさりと俺の問いに答えた。
「いや。俺は、監督造反で部活を辞めた。」
「────…………なっ。」
あまりのことに、俺はとっさに包帯の下で目を見開きかけた。
ズキンッ、と走る頭痛にも似た痛みに、グ、と体をかしがせる。
けれど、頭はその痛みよりも、違う痛みに悩まされていた。
──あの、里中が?
何が何でも、投手として俺と戦い続けることを選んだ、この男が……部活を、辞めた?
「…………なぜ……。」
「俺は、そんな方法でエースになりたかったわけじゃない。」
忌々しげに──そうはき捨てるように呟いた里中の言葉に──あぁ、と、俺はようやく気づいた。
里中は、気づいていない。
自分がどれほど、監督に大事にされているのか。
自分がどれほど、俺に食らいついてきているのか。
なぜ俺が──おまえが俺に近づこうとしないからと、それに従うように、おまえを視界に入れようともしなかったのか。
おまえの変化球は、俺よりも鋭く正確で。
本当なら、俺の速球とおまえの変化球さえあれば、東郷中学は完璧なまでの投手力に恵まれることになるはずだった。
監督は、けれど、中学時代から変化球を投げ続けることのリスクを良く知っていて、だからこそ──里中は、高校デビューさせることをひそかに誓っていた。
「……監督は、何も言わなかったのか……?」
その思わずこぼれた呟きは、監督が里中の肘を壊す可能性について、指摘していなかったのかと、そういうつもりだった。
だけど里中は、別の意味に感じ取ったらしく、
「投げろといわれて投げないピッチャーは必要ないと言われた。
後は、自主退部の形を取れと。」
「………………………………………………。」
正直、困惑を抑え切れなかった。
監督は何を考えているのだろうと、そう思った。
里中は「補欠」だけれど、普段の練習を見ている限り、体が小柄なのが勿体ないほど、いいセンスをしているはずだ。
小平も俺を前にして口には出さないけれども、里中の変化球には目を見張るものがあると知っている。一度受けようとして、受けそこなったのを、俺は見ている。
それに彼が練習後にボールを籠の中に入れるついでに、コントロールの練習をしているのを見たことがある。
俺の速球には力がある分だけ、コントロールが甘い。
その俺と里中の変化球は、まったく対極に位置していた。
だから、比べようが無いと言えば比べようが無い。
けれど、比べるというなら──里中の体ができてきていたら、俺も……正直、追い抜かされる心配もしなくてはいけなくなってくるという認識があった。
高校に入れば、確実に彼とエースを争うことになる。それは、目に見えてわかるほど、近い将来だと──思っていた。
その、里中が。
野球を、辞める?
「────…………。」
ただ無言で黙る俺を見下ろして、里中はふぅ、と短い吐息を零した。
「どちらにしても、俺もちょうどせいせいしてたからいいんだけどな。
……おまえが居ない野球部は、あまりにもレベルが低すぎるぜ。」
低く呟いて、里中は俺の前で苦笑をかみ殺したようだった。
「…………さとなか……………………。」
「おまえも感じてたんだろう、小林?」
軽く笑うようにそう告げて、里中は──なぜか愉悦に満ちた声で、続けた。
「──山田が、西南中学を辞めたぞ。」
「────…………っ。」
ヒュ、と……喉を通り抜ける風を感じた。
里中の口からその名前が出るとは思わなかったという驚きと、山田が中学を辞めたと言う驚きと。
その二人がない交ぜになって、俺はただぽかんと口を開く。
力が入らなくなった手から、ころり、と零れたゴムボールが、ポーン、とベッドから滑り落ちたが、その行方を里中に問いただすことすらできない。
ただ俺は、里中の声が聞こえてきた辺りに、顔を向けるしかなかった。
「先日、家族で引越しを済ませて、鷹丘中学に転入したぜ。」
──考えたら、分かることだった。
あの事故が、試合中の不幸な事故であったと、そう分かっているのはおそらく、俺と監督だけだ。
ほかの誰もが、山田に対してこう叫んでいた──あのデブ、素人でルールを知らないのではないか、と。
きっとあの後、山田だけではなく山田の家族は、人々からの非難の攻撃を受けたのだろう。
もちろん、東郷のエースを傷つけたのだから、無事であれるはずがない。
俺の父と母、妹は、山田の人柄を知り、「事故のことを君が気にする必要はない」と、逆に山田を励ましていたようだが──誰もがそうあれるはずもなく。
「山田が…………。」
呆然と、俺は呟いた。
誰も教えてはくれなかった──山田はどうしているかと、妹の稔子に聞いたとき、彼女が曖昧に言葉を濁していた理由が分かったような気がする。
山田が最後に土下座をして以来、ここに来なかった理由も、分かったような気がした。
ぎゅ、と、強く手を握りしめる。
なぜか、今、山田におまえのせいじゃないと、そう叫ばなくてはいけないような気がした。
そんな俺へ、
「──山田に会いに行くつもりなら、その前におまえは、その目を治して……野球に復活するべきじゃないのか?」
里中が、せせら笑うように、ひっそりと、呟く。
「その目、治せる可能性があるんだろ?
だったら、そうできる医者の所に行って、直して来いよ。」
「……里中…………。」
「万全の状態じゃないおまえと戦っても、意味が無い。」
ギッ、と……射抜くような鋭い視線が、俺の体を貫いた。
──野球部を辞めて、一体どうやって、俺と戦う気でいるのか。
そんなことも何も意味がないように、里中はただ強く俺を睨みつけて、
「おまえはこんなところで、くすぶっていられるような男じゃない。」
居丈高に、そう言った。
かと思うや否や、里中はクルリときびすを返し、カツカツと音を立てて──やがて、ガチャリ、と音を立てた。
そんな里中に、ただ俺は、呆然とするしかなかったのだけど。
やがて少し後。
俺は、里中がどうしてそんな行動に出たのか、知ることになる。
まだ山田は野球を続けている。
そう信じていた入院時代の俺。
*
「──鷹丘中学との試合は……東郷中学のヤツらの目を覚まさせる良い機会だったな。」
中学の卒業アルバムの一ページに載せられた写真は、野球部の栄えあるA地区代表の瞬間──の写真のはずだった。
なのに、数枚ある野球部の写真の中の一枚は、なぜか一回戦の対鷹丘中学の写真。
きっと、卒業アルバム実行委員会が、鷹丘中学の面子が面白いからと、受け狙いに入れたのだろう。
何せ、腹の出ている小柄な男が足元でゴロゴロと球を転がしてる姿に、並外れた巨人である男がハッパを加えてカメラに向かってポーズをとっている姿。
そんな彼らの後ろで妹相手に笑いかけている山田。
そして、そんな懐かしの鷹丘中学面子の遥か手前で、準備運動をしている小林たち。
そこに里中と微笑の姿はないが、これは確かに「今の明訓高校」の礎だった。
山田はあの事故をきっかけに鷹丘中学に移り、「岩鬼」「殿馬」という友人を手にした。
そして里中は、あの事故のおきた試合を見て、自分の捕手は山田以外にはいないと、彼を追って明訓高校へ入学した。
里中が、東郷の高等部ではなく、外部受験を知ると聞いたのは、いつのことだっただろうか?
「────…………あの時、始めて知ったんだったな。」
その写真たちの下──野球部員の集合写真の中に、里中の顔はない。
彼は、中学2年の時に、野球部を退部してしまっているからだ。
結局、里中は東郷で二度と野球をすることはなかった。
いやおそらく、あの瞬間から彼は、東郷学園で野球をすること自体を、すでに考えていなかったのだろう。
彼がわざわざそれを報告に小林の入院先に訪れたのは、自分が選んだ「山田太郎」と言う男を、再び野球の道に戻すのに、小林の力が必要だと思ったからか、それとも──、
「結局、あの西南中学戦で、山田のすごさを見抜いたのは、俺と監督と……里中だけだったな。」
あの時、小林は「山田がスゴイ男だ」と見抜いたのは、自分と監督だけだと信じていた。
もしその時、ベンチの奥で控え投手として一応籍を置いていた里中が、山田を見ている目に気づいていたら、もう少し何かが変わっていたのだろうか?
──いや、何も代わりはしなかっただろう。
当時の自分は、監督が「中学生に変化球主体の投手はさせない」という形を徹底していた限り、里中に中学野球での出番はなかったはずだし、それで里中が結局監督造反で野球部を辞めたのだとしても、小林も監督も里中の野球への情熱を知っている分だけ「高等部に入れば、また野球を始めるだろう。里中は結局、『中等部野球部の監督』とソリが合わないだけに過ぎないのだから」と、そう思っていた。
けど、里中の中の真実は、そうではなかった。
彼は、チームメイト内のライバルとして小林と争い、時には強敵と共に戦う道を選ばなかった。
「たいしたヤツだぜ、まったく。」
もしも、里中が山田と出会わなかったら。
もしもあの時、俺が目を怪我していなかったら。
里中は今でもこの東郷に居ただろうか。
──三年間勝ち続けることができたのは、明訓ではなくて、俺たちであっただろうか?
「……ばかばかしいな、里中一人で、何が変わるって言うんだ。」
苦い笑みを刻み込みながら、卒業アルバムを閉じる。
けれど、そう口にしながらも、その「たった一人」で、何かが変わったことを、小林は何度も目撃している。
そのたった一人は、「里中」ではなくて──「山田」と言う男だったけれども。
山田が居たから、岩鬼が明訓で野球部に居て。
山田が居たから、殿馬は明訓でも野球を捨てずに居て。
山田が居たから、里中は明訓に入った。
山田が居て、そんな彼らが居たから、微笑は横浜学院ではなく明訓を選んだ。
そうして、いつしか明訓のそんな彼らに、「明訓四天王」だとか言う呼び名がつけられていて。
明訓は、5度甲子園に出場し、4度優勝した。
けれど。
「──俺たちは、一度として明訓と戦ったことは、なかった。」
もしも、一度でも山田と戦っていたなら、それが勝ちであったとしても、負けであったとしても。
俺は、ここまで悔いを残すことはなかったのではないだろうか?
明訓を選んだ里中。──山田を選んだ、里中。
里中は、山田を選んだ。
彼のすごさを見抜く目を持ち、彼の中に自分の可能性を見出し、彼と敵対することよりも、彼の元で自分の最大限の力を引き出すことを望んだ。
「万全の状態じゃないおまえと戦っても、意味はない。」
そう言ったくせに、彼は結局、一度も俺と戦うことはなかった。
微かな苦い笑みを刻み込んで、小林は手を裏返すようにして、卒業アルバムを手の平から落とした。
ドサリ、と鈍い音を立てて床の上に落ちるのを見下ろしもせず、小林は無造作に量が減った本棚へと手を伸ばす。
そして再び本棚の中身の片づけを開始させながら、
「──もっとも、おまえは。」
小さく、呟く。
「もうそんなことすら、忘れてしまってるのかもしれないだろうがな。」
思い出すのは、最後の春、最後の夏。
中学時代には、決して見せなかった明るい笑顔で、隣に居る山田を見上げたそのままの笑顔で、東郷学園のユニフォームに身を包んだ「元チームメイト」たちを見上げて、
「がんばれよ、小林。」
そう、屈託無く笑った、彼の顔と声。
決して野球部では見たことがないほどの、心からの激励。嫉妬も脅しも何もない、ただ純粋な言葉。
「さすが小林だよな。」
当たり前のように、告げられる言葉。
──中学時代、決して聞くことがなかったその台詞を、何の逡巡もなく、彼は口にする。
とっさに、「おまえもがんばれよ」と返すことができた自分は、優秀だと思う。
何せその後、中学時代からのチームメイトたちは、声も出ない様子だったから。
そんな彼へ、今更、ふと言いたくなることがある。
おまえが控え投手の控えでしかなかったのは、おまえが変化球投手であったからなんだと。
おまえが居てくれたら、東郷学園は明訓にも勝てていたかもしれないのだと。
同時に、ばかばかしいと、苦い思いを噛み締めて思うからこそ、誰も口にすることはなかったが。
その言葉がどれほどばかばかしい言葉なのかなんてことは、明訓の輪の中で、ひどく幸せそうに笑う里中の顔を見ていれば、すぐに分かることだった。
それは、決して俺たちでは、与えられなかった「絆」。
あのまま高等部にあがり、里中が東郷野球部に入ったとしても、決して築けなかっただろう、「信頼」。
「明訓の卒業アルバムで、おまえは満面の笑顔で笑ってるんだろうな。」
たやすく想像ができて、小林は小さく笑みを乗せ──同時に、くだらないことだと、笑みを掻き消した。
この、くすぶるような感情が、何に対しての嫉妬なのか、自分のことながら分からなかった。
ただ、分かることは。
「結局、俺も山田もおまえも──決着をつけることはできなかったな。」
──それが、小林の高校野球の、唯一の悔いになるだろうと言うことだけだった。
+++ BACK +++
捏造120%
暴走しすぎました。ゴメンなさい。
そしていつ見ても切ないです。
鷹丘中学を破り、A地区代表になったのに、不知火にめった打ちされる小林が……っ!!!(新聞より)
本当はこういう話を描くつもりだった。↓↓↓
受験勉強でカッカした頭を冷やすために、ちょっと遠出して走った先──残暑の気配が濃厚に残るアスファルトの道路の上は暑くて、進行方向を川へと取った。
堤防の上に出ると、川から走る風が心地よくて、少しだけ足の速さを緩めて走る。
そうしていると、つい二ヶ月ほど前まで、野球部で毎日練習をしていた日々が思い返された。
今はもう、あの焦がれるような思いが、ぽっかりと空いた胸の中に残るだけだったが。
「……結局、山田とは戦えずじまいだったな。」
ふとそんなことを思い、苦笑をかみ殺して視線を前へやった刹那、川沿いに続く堤防の、かわらへとなだらかに続く土手に、ぽつん、と見える人影があった。
進行方向の先に見える、土手に座り込んでいるらしい体は、遠目に見ても誰だかわかる。
「噂をすれば影が差すというけどな。」
苦く笑みを刻みながら、小林は少しだけ足を速めて、なぜかこの堤防の土手で休んでいるらしい山田の方へと、駆け寄った。
すぐに近づいてきた人影は、間違いようがなく山田その人だ。
学校帰りのままなのだろう、白いカッターシャツに黒い学生服のズボン、隣にカバンを投げ出して、ただ静かに川を見ていた。
小林は彼の10数メートルほど手前で足を止め、斜め後ろから見える山田の静かな横顔に向かって声をかけた。
「山田、何をやってるんだ、こんなところで。」
偶然だと声をかけると、彼は驚いたように肩を軽くはねさせた後、肩ごしに小林を振り仰ぐ。
その視線を受けて、小林はニコヤカな笑顔を浮かべて、足首が隠れるほどの草に足を踏み込む。
「小林君……偶然だね。」
うっすらと汗を掻いて、頬を上気させている小林が、ここになぜ居るのか、山田は一目で理解したのだろう。
穏やかに微笑みながら、そう切り出した。
そんな彼に頷きながら、小林はズカズカと足を踏み入れ、山田の傍へと近づく。
「あぁ、ちょっと気分転換に走ってきたんだが、まさかこんなところでおまえに会うとは思ってなかった。
山田は、どうしたんだ?」
そう笑いかけて、山田の隣に立ち、彼を見下ろし──そこで始めて小林は、ちょうど山田の体で死角になっていて見えなかった人物の存在に気づいた。
それと同時、軽く目を見開いて、山田の隣で横になっている少年を凝視する。
軽く目を見開く小林の視線に気づいて、山田は、うん、と頷いた。
それから山田は、自分の膝の上に小さな頭を預けて、スヤスヤと寝息を立てている彼の肩を撫でていた手を止め、視線をその少年の上に落とすと、
「里中の病院の帰りなんだよ。
風が気持ちよかったから、ここで話してたんだけど、里中が寝ちゃってね。」
小さく笑いながら、再び小林に視線を戻す。
「病院……あぁ、甲子園の時にか?」
また肘か肩でも痛めたのかと、眉を寄せて心配げに問えば、山田は里中の体に掛けていた自分の上着の皺を整えながら、
「いや──うん、そうかな。」
何か言いかけ……山田はそれをとめて、曖昧に微笑んだ。
その一瞬、里中をチラリと見下ろしたことから判断すると、里中に関することには違いないだろうが、小林には言いにくいことなのだろう。
そう思ったからこそ、小林はそれ以上追及することもなく、山田と里中を見下ろした。
里中は、東郷学園時代には想像もできないほど、ただ穏やかに無邪気な顔で寝ている。
安心しきっている顔だと、そう思った。
「いくら残暑だと言っても、もう秋だぞ。こんなところで寝ていたら、風邪引くんじゃないのか?」
「うん、もう少ししたら起こそうと思ってたんだ。」
ただ穏やかに微笑み、里中を見下ろす山田に、なぜかそれ以上何もいえなくて、小林は口をつぐんだ後、コリ、と頬を指先で掻いて、
「……退屈じゃないか、山田?」
「うん? いや、どうしてだい?」
なんとか口から出た台詞に帰ってきたのは、あまりにも当然のようにあっさりとした疑問であった。
小林は、その不思議そうに帰ってきた台詞に、何も言えず──うん、と何か納得したように頷くと、
「いや──なんでもない。」
それ以上、突っ込むことはなかった。
本当に書きたかったのは、東郷学園の人たちが、明訓での里中の屈託なさに驚く話だったのですが(大笑)、そして小林が、実は少しだけ、あのまま彼が明訓に行かなかったらと思っていたことがあると、山田に話す話だったのですが……出来上がったら、ヤマサト表現も一つもない話になりました。
ので、上で補完してみました。
なんか幸せそうで何よりです。
誰も入っていけないので、小林さんはこのまま即効帰っていくことでしょう。
ええ、こんな状況で、昔話なんてできるはずがなかったんです──そうなんです。