芦屋旅館に帰れば、待っていたかのような多くのファンに囲まれた。
 おめでとうと口々に言われ、さらに球場とは違う記者達が群がり──その中を掻き分けるようにしてホテルの中に入れば、なぜか従業員がこぞって入り口に並んでいた。
 何事だと驚いて目を見張った明訓野球部に、彼らは漏れ出るような満面の微笑みで、

「おめでとうございます!」

 ガバッ、と、揃って頭を下げてくれた。
 その勢いに、みんな驚いて脚を止めたけれど──すぐに彼らは満面の笑みになって、
「ありがとうございます。」
 万感の思いを込めて、そう返した。







君の手をつなぎ













「はいよ、明訓のみなさーん。」
 旅館の名前の入ったハッピを着たホテルのおじさんが、夕食後の食堂にダンボールを担いで入ってきた。
 横幅も奥行きも、おじさんがようやく担いでいるというくらいの大きさがある。
 ドン、と盛大な音を立てておじさんが机の上に置くのを、なんだなんだと、食事を終えた高校生たちは目を瞬くばかりだ。
 先ほどまでウロウロしていた──実を言うと、今も記者が数人、張り込むようにホテルの前にいるらしい──ファンだとか言う人たちが、持ってきた物だろうか?
 ──だがそれを持ってきたにしては、異様に明るい笑顔で、おじさんはいそいそとダンボールの蓋に手をかける。
「うちのホテルに出入りしてる業者さんがね、ぜひあんた達にって持って来てくれたんだよ。」
 その台詞を聞いた瞬間、明訓ナインの脳裏に浮かんだのは、豪勢な鯛のお頭付きだとか(そんなものがダンボールで来るはずがない)、でっかいマグロの1匹冷凍だとか(そんなものがこの大きさのダンボールに入るはずがない)であった。
 ホテルに出入りしている業者だと言うことを聞いた瞬間、彼らはそれは「食べ物」だと信じて疑わなかった。
 わっ、と歓声を上げたかと思うと、今の今までご飯を食べていたばかりだと言うのに、おじさんが開き始めるダンボールにたかり始める。
「それはそれは……、ありがたいことだの。」
 キャプテンにビールを注いでもらいながら、一人で今日の祝い酒をしていた大平監督も、どれ、と席を立つ。
「デザートですかっ!?」
「もしかして、夜食とかですか〜っ!?」
 ワクワクと、目を輝かせる食べ盛りの後輩達に、うんざりした顔を見せるのは里中であった。
 この間の青田戦の再戦からずっと、体に残っている疲れと戦い続けていた彼は、疲れのあまり今日の夕食の箸も禄に進まない状態だった──前の席から伸びてくる岩鬼の箸を、ことごとく邪魔できなかったくらいだ。
「まだ食べるのかよ、お前等……。」
 食後のお茶を啜りながら、げぇ、と顔を歪める里中に、
「良く運動したからな。」
 ニコニコと穏かな顔を崩さず、山田もそんな人山を見つめる。
 ワラワラと、ダンボールの中身を一刻も早く見たいと群がる欠食児童どもに、おじさんはおじさんは首をすくめるようにして、ダンボールの蓋を開いた。
 期待に目を輝かせて覗き込む明訓野球部のナイン達は、こぞって首を伸ばして、そのダンボールの中身を覗き込む。
 まず見えたのは、カラフルな銀紙と赤紙がクルクルと交互に巻かれた棒。
 まるで縁日の屋台で飾られている、大きな飴の持ち手のようだと、そう高代がボンヤリと思った先。
「いやー……食べ物じゃなくって、悪いんだけどねぇ。」
 おじさんが、コリコリと頭を掻きながら、その蓋を全開にした。
──と、同時、
「……あっ!」
「すっげぇっ! こんなにたくさんあるの、初めて見たっ!!」
 先ほどの興奮とは比べ物にならない興奮の声が、部員達の中からあがった。
 まるで球場に居るかのような響く歓声に、何事だと、里中と山田が問いかけるように視線をあげる。
 けれど、そんなバッテリーには気づかず、誰も彼もがダンボールの中に手を突っ込み、持った物を掲げた。
 その、カラフルな模様を見た瞬間、
「あ、山田、あれって……っ。」
 思わず里中はそれを指差し、そう呟いていた。
 遠目にもはっきりと分かる、ダンボールの中身。
 目を見張る里中が視線をやった先で、山田も同じように驚いた顔をしていた。
 と同時、
「よっしゃっ!!」
 ピピーンッ、と、ダンボールを大きな両手で掴んだ岩鬼のハッパが花開く。
 抱えられないほど大きなダンボールの中身──たくさんの「祭り道具」を見て、この男がやる気を出さないわけがなかった。
 岩鬼はグイと袖を捲り揚げると、ダンッ、と机の上に豪快に足を乗せて、
「ご期待に答えて、今夜は明訓高校野球部、一世一代の花火大会、やったるでぇっ!!!」
 唾を飛ばす勢いで、叫んだ。
 もちろん、そんなステキなお祭りに、反対する人間など居るはずもなく。
 ワッ、と湧いた食堂は、あっと言う間に興奮の渦に突入するのであった。














 ホテルの人が渡してくれた花火は、ダンボールの中に隙間ができないほど埋め込まれていた。
 夏の屋台に並んでいる打ち上げ花火に手筒花火、かんしゃく玉にパラシュート、連発花火に定番のススキ花火。ありとあらゆる種類の花火がダンボールの中にぎっしりと詰め込まれている。
「水はそこの蛇口から、好きなように使ってくださいね。あ、池には気をつけてくださいよ、岩鬼鯉がいますからね〜。」
 軽やかな笑い声を立てて、ホテルのハッピを着たおじさんは、空のバケツを数個、庭に置いてくれた。
 ホテルのロビーの窓からも降りられる、鯉が棲む池のある庭である。
「い、岩鬼鯉〜?」
 何のことだと、顔を顰める蛸田や上下たちとは違って、
「ぬなっ、ま、まだ生きとったんかい……っ!」
 岩鬼は去年も思ったことを今日も思い──そういえば今年は、ホテルの池の鯉と戯れることもなかった事実を思い出した。
 ぬーん、と目を据わらせて、目で池の方に視線をやるが、ホテルの窓から差し込む明かりの下でパシャンと水面が跳ねるばかりで、鯉がいるかどうかすら肉眼では確認できなかった。
 その池の先には、つい先日まで投球練習用のネットが張られていた──が、今はもう取り払われている。最後まで宿に残った明訓高校も、明日の朝には新幹線で神奈川に帰ってしまうからだ。
 その庭にゾロゾロと降り立ちながら、高代がウキウキした口調で笑う。
「花火なんて、中学以来だよ。」
 中学の時の部活では、短期合宿の夜に花火だとか肝試しだとかした覚えがあったが、明訓に入ってからはそんな暇はなかった。
 時々真夜中に、校舎の中に宿題の忘れ物を取りに行くだとか──それを知った微笑と殿馬が、真っ暗闇の中で顎から懐中電灯を当てて、『明訓七不思議』の話を楽しげにしてくれたおかげで、楽しくもない「一人肝試し」を何度か体験する羽目にはなったが。
 花火もまた、青春の一こまだよな〜、と浮き立つ高代に、
「花火なら、今年も見たじゃん。花火大会。」
 呆れたように渚がそう声をかける。
 大きな花が夜空に咲くたびに、わーっ、と歓声をあげてたのを覚えてないのかと、バカにした口調で続ける渚に、高代はブッスリと唇をゆがめた。
「あれは見るだけだろっ。」
 夏の花火大会なんて、大会の直前か大会の真っ只中で、夕食を慌ててかっくらい、風呂もさっさと切り上げて、合宿所を抜け出して校舎に忍び込んだその屋上で見たという記憶しかない。
 確かに屋上から見た花火は、大きく綺麗に見えて、皆で騒ぎながら見たから、楽しかったと言えば楽しかったが、それとこれとは話が別だろうと、拗ねたような表情で叫ぶ。
 そんな高代に、岩鬼はガシガシと大きな手の平で撫で付けると、
「すねとる暇はないで、タカ。
 これを全部、わいらでやりつくさなあかんさかいな。」
 まずは花火をするための準備じゃい、と、やる気満々に告げる。
 そんなお祭り男の台詞に重なるように、ホテルのロビーの方角から声が聞こえた。
「おー。やっとるかな。」
 芦屋の浴衣姿に着替えた大平監督が、のんびりと団扇を仰ぎながら窓辺に立つ。
 小柄な体をいつものように丸めるようにして立ちながら、彼は一段低い位置の庭に散っている野球部の面々の顔をぐるりと見回した。
 彼の手には蚊取り線香が握られていて、それをポンと窓辺に置くと、自らは窓近くのソファに腰を落とす。
 それとほぼ同時、大平が歩いてきたホテルの正面玄関の方角から、ガササガとビニールの音を立てて、蛸田と上下が走ってきた。
 2人は両手に、近くのスーパーの名前が印字された袋を持っている。
 急いだ様子でロビーに飛び込んできた彼らは、その袋を掲げると、庭に居る仲間達に向かって叫んだ。
「監督からの差し入れっすよ!」
 ガチャガチャと小さな音を立てる缶ジュースが透かし見える。
 とにかく炭酸以外のジュースを色々買ってきたといわんばかりの、華やかな色合いだった。
 満面の笑顔で叫ぶ蛸田と上下に、うんうん、と大平監督は頷くだけで、椅子から動こうとはしなかった。
 その監督の座る椅子の前のテーブルに、ガラガラと缶ジュースを開けると、
「やったーっ! 監督、ごちっす!」
「ごちそうさまでーっすっ!」
 バンザーイッ、と両手を挙げて、一年生と二年生が喜びの色をたたえる。
 そんな後輩達の背を押すように、ダンボールの中に山積みになった花火を確認していた里中が、首を傾げるようにして顔を上げて、
「ロケット花火があるから、誰でもいいから、缶ジュースを飲み干せよ。」
 両手に十数本のロケット花火を掴んで、ほら、と告げる。
 とたん、打ち上げ花火を設置していた香車や、手に蝋燭を持った高代、蚊取り線香を移動させていた渚が、先輩の許可を得たとばかりに、ワッとホテルの部屋の中にあがりこむ。
「そういうことなら、任せてくださいっ!」
 靴を投げ出すように庭に捨てて、彼らは監督の前に広げられた缶ジュースにたかり始める。
 そんな現金な彼らに、オイオイ、と微笑が笑顔のまま、困ったように眉を寄せた。
「ロケット花火もいいけど、まだ蝋燭に火もついてないんだぞ〜。」
 両手に握られた白く太い蝋燭を見下ろす微笑の前に、ヒラリ、と手の平が伸びてくる。
 見下ろすと、里中がダンボールに突っ込んでいた顔をあげていた。
「マッチならココにあるぜ。俺がつけるよ。蝋燭をくれ。」
「……んじゃま、さっさと蝋燭に火をつけて、先にはじめるか。」
「だな。」
 蝋燭を里中に手渡して、缶ジュースに群がる後輩達を睨みつけてから、微笑は諦めたように自らダンボールの中を覗いた。
 はじめに覗いたときよりも、花火は綺麗に整理整頓されているように見える。
 打ち上げ花火や噴出花火の類は、全部渚と高代が取り出したはずだから、すぐ近くに見える筒状の花火は、手で掴んでやるものなのだろう。
 何気にそう思って手にした花火には、「手筒花火」と書いてあった。
 その側面に記載されている「人に向けないでください」という注意書きに目を落とした瞬間、今すぐこれに火をつけて、あいつら向けて放ってやろうかと言う凶暴な気持ちが生まれないわけではなかった。
 けれど、残念ながらココは大阪は芦屋旅館内。とてもじゃないが、おかしなことをするわけにはいかない。
「まったく──、線香花火だけしか回さねぇぞ。」
 苦い色を持って呟く微笑の前で、里中は蝋燭を立てるための切れ込みの入った紙を地面に敷いて、その上に蝋燭を立てていた。
 蝋燭の具合を確認してから、里中は、シュッ、とマッチを一本、摺った。
 リンの匂いがして火花が散るが、せっかくついた炎は、ゆぅらりと大きく揺れて消えてしまう。
 風が吹いているようには見えなかったが、小さな炎をかき消してしまう程度の風が、吹いているようである。
「智、それならこれを……。」
 それを見下ろしていた微笑が、花火の入ったダンボールに手を置いた瞬間。
「…………やまだー、風除けになってくれよ。」
 微笑が最後まで台詞を言い切るよりも先に、当たり前のように顔を上げて、山田を呼んでいた。
「………………………………………………。」
 イヤ、風除けなら、このダンボールで十分じゃないのか。
 思わず手を伸ばし、里中に向かってそう苦笑じみた言葉を吐くつもりだったのだけれども。
「わかった、里中。少しだけ待ってくれ、今、水を入れてるから……。」
 当たり前のように、里中が求めた先から、声が返って来た。
 視線をあげると、ホテルの人が置いていってくれたバケツに水を張っている山田の姿が見える。
 蛇口を全開にした水道からは、ジャバジャバと勢い良く水が流れて行っている。
「おー。」
 里中は軽く手をあげて、そんな山田に答えた。
 そんな「いつもの2人」に、風除けならダンボールもあるぞ、だとか言う悲しい台詞を吐くことはなかった。
 ──いや、あえて言うと、微笑はアッサリと、2人の世界を作り上げるために、無意識に努力しているらしい里中と山田の世界から、手を引いたのである。
「幸せになれよ、智……。」
 そんなことをこっそりと胸の中で微笑が吐いているなんて気づかず、里中は山田が水を入れているバケツを見ているのを、ジー、と見つめて待っている。
 時間の無駄遣いに他ならないと思ったが、あえて微笑はそのことを意識の外に追い出した。
 代わりに自分はロビーにあるジュースを取るために靴を脱いでロビーに上がりこみながら、肩越しに里中達を振り返った。
「智、山田、お前らは何飲む? 取ってきてやるよ。」
「ん、ポカリがあったらそれでいい。寝る前だしな。」
 微笑に向かって笑顔を向けた瞬間、里中は自分の真上に落ちる薄い影に気づいた。
 顎をあげると、すぐ背後で岩鬼が、真剣な顔で打ち上げ花火の取り扱いを読んでいるのが見えた。
 一番最初は、豪快に激しくやりたいと思っているのだが、どうも花火の使い方が分からない──と言った具合だろう。
 そんな岩鬼を見上げて、里中はクルリと山田へ視線を向けると、
「山田、岩鬼がいたから、ゆっくりでいいぞー。」
 ブンブンと手を振って、え、と自分を見返す山田にニッコリ笑ってやってから、さて、と蝋燭とマッチを移動させた。
 岩鬼がちょうど風除けになるような位置まで移動して、里中はシュッと彼の影でマッチを摺る。
「こらまたんかい、サトっ! おんどれはわいをなんやと思っとるんやっ!」
 自分の背中で蝋燭に火をともしている里中を肩越しに振り返り怒鳴りつける岩鬼の声に、里中はあくびれず、
「キャプテンでーっす。」
 マッチの火を蝋燭に移した。
「サトーっ!!」
 思いっきり良く真上から降ってきた岩鬼の声に、蝋燭に灯った火が大きく揺れたが、一瞬弱まっただけでその直後に、直後に煌々と明るい色を形作った。
 これだけ大きく燃え上がっていれば、多少の風では消えないだろう。
「よし、蝋燭の準備はOK。」
 うん、と里中は満足げな笑みを浮かべて、スックと立ち上がる。
 振り返った先で、ちょうど山田がドスドスとバケツ一杯の水を両手に提げて、駆け寄ってきたところだった。
「水はココにおいておくからな。」
 どん、と少し離れた場所の二箇所にバケツの水が置かれ、準備は万全。
 よし、と頷いた里中は、ダンボールの中に手を突っ込み、花火を適当にわしづかみにすると、わなわなと未だに震えている岩鬼を見上げた。
 そして、にっこり、と花綻ぶように微笑むと、
「じゃ、まずは岩鬼、お前からだぞ。」
 ほら、と、掴んだ花火を丸ごと岩鬼に寄越した。
「なんやとっ!?」
 片手に握り締めた打ち上げ花火と、里中に握らされた花火の束を交互に見て、目を見開く岩鬼に、ずらずらと足を引きずるようにして歩いてきた殿馬が、里中と同じようにダンボールの中から花火を鷲づかみにして、
「最初はスーパースターで始まりづら。」
 岩鬼の手から打ち上げ花火を奪い取り、代わりに自分が握った花火を握らせる。
 ドサリ、と全部で20本近くの花火を両手に握らされた岩鬼は、戸惑ったように左右を交互に見やった。
 実を言うと岩鬼は、豪快な打ち上げ花火は見たことがあっても、こういう自宅で細々とやるような花火は、やったことがなかった。
 ぬなっ、と顔を顰める岩鬼が両手にごっそりと花火を握っているのに気づいた微笑達が、ホテルのロビーから顔を覗かせるようにして、
「そうそう、豪快に行ってくれよ、岩鬼っ!」
「キャプテン、ドンとやっちゃってくださーいっ!」
 ひゅーひゅー、とはやしたてる。
 その背後からの声援を受け、岩鬼のボルテージは一気にあがった。
「そやっ! 最初の一発は、どかんと開幕ホームランやっ!!」
 バンッ、と花火を掲げる岩鬼の手に握られた花火の量に、山田はギョッと目を見開いた。
「っておいおい、どれだけ岩鬼に持たせるんだよ……危ないじゃないか……っ。」
 慌てて、それは自殺行為だと、山田は走り寄って岩鬼を止めようとするが、里中はそんな彼の肩に両手を置いて、
「まぁまぁ山田、大丈夫だって、岩鬼だし。」
 根拠のない自信たっぷりな口調で、言い切ってくれた。
 その、非常に楽しそうで嬉しそうな顔で語る里中の笑顔に、一瞬見とれるように絶句した山田は、
「里中……、それでも、いくらなんでもあれは……。」
 言いかけた口に、指先が当てられる。
 動揺を隠しきれない山田の腕を掴んで、里中は彼を強引に岩鬼から引き離す。
「里中…………。」
 困ったように眉を寄せる山田の視線の先で、両手に持った花火を下に降ろし、蝋燭の火を、カッ、と睨みすえている岩鬼が居た。
 彼が、そのまま両手についた花火を前に突き出した瞬間──、


しゅっ。


「づら。」
 どこからともなく「チャッカマン」を取り出した殿馬が、右から左に向けてボッと火をつけた。
 かと思うや否や、そのままダッシュでホテルの中に飛び込む。
「あっ、殿馬さんが逃げたっ!」
「っていうか……ありゃ、つけすぎだろー!!!」
 缶ジュースにたかっていた面々は、飛び込んできた殿馬の存在に気づき、初めて岩鬼の手に握られた大量の花火に気づいた──そのどれもに、すでに火がつけられていることにも。
 両手に持たれた花火に一斉についた花火の火に、ギョッとしたように目を見開いた面々が、たたらを踏んでいる一瞬の間に──、
 バチッ、シューッ……と、一発目の花火が火を噴いた。
 と同時、


バチッ、バチバチバチバチっ! シューッ!!


 激しい音とともに、色とりどりの花火が岩鬼の両手から放たれ、それに混じって白い煙が、もくもくと湧き出し始める。
 濃厚な白の形を取った煙は、そのまま岩鬼を取り巻いていく。
「って、げほげほっ! だっ、だれじゃいっ! ヘビ花火を混ぜたんはっ!!」
 しゅ〜、と、固形のように広がっていく煙。
 その正体にすぐに気づいた岩鬼に、彼から大分離れた位置まで逃げていた里中が、、良くわかったなー、と感心していた。
「……里中……。」
 混ぜたのはお前かと、溜息を零す山田に、あははは、と里中は笑って、
「アレが終わったら、俺たちも始めようぜ。」
 いたずら気な笑みを口元に浮かべて、な? と山田を見上げる。
 山田はそんな彼をなんとも言えない顔で見下ろしたが、コリコリ、と指先で頬を掻いたあと、
「……そうだな。」
 そう同意を示した。
 まぁ、危険ではあるが、相手は岩鬼だから、大丈夫だろう。──人に向けてるわけでもないし。
 そうやって遠巻きに見ていること少し。
 岩鬼の手に握られた花火は、一本、二本、と勢いを失っていく。
 それに伴って、彼から避難していた面々もゾロゾロと戻ってきた。
「よーし、それじゃおれもさっさと始めるか。」
「づら〜。」
 なんでもないことのように、口々にそんなことを言いながらダンボールの中を覗いて、適当な花火を手に取る微笑と殿馬に、
「おんどれら……っ。」
 わなわなと岩鬼が肩を怒らせる。
 その彼の手の中で、火が消えた花火が、パキパキと音を立てる──花火の棒が、折れていく音である。
 手の平からぽろぽろと花火の残りかすが落ちていくのを見て、慌てて山田は岩鬼に駆け寄った。
「岩鬼、それを預かるよ。」
 このままでは、残骸が土の上に落ちていってゴミになる。
 そう言って手を伸ばした山田は、彼の手から花火を抜き取り、まだ熱を持っている花火を、ジュゥ、とバケツの水につけた。
 その花火の量たるや──スゴイ。
 おそらく、スーパーでこの時期に売っている小さな花火を丸ごと一気に燃やしたような状態だろう。
 あーあ、と思いながら突っ込まれた花火を見下ろす山田の隣で、
「それにしても、すっごいオープニングでしたよね〜っ、さっすがキャプテンです。」
「まさにスーパースターって感じですよねっ!」
 二年生たちが、やんややんやと岩鬼を煽っていた。
──この分だと、岩鬼が復活するのもあと数秒ほど後のことだろう。
 そんな、派手なまでの「花火大会」のオープニングを勤め上げた岩鬼に続けと、微笑と殿馬が自分の手にした花火に火をつける。
 シュー……と明るい色を放つ花火に、おおーっ、と楽しげな声をあげた里中も、適当な花火を手に取り、
「三太郎、火、分けてくれ。」
 ヒョイ、と花火の先端を、微笑の花火へ向ける。
 そんな彼に、
「里中、花火から火を貰うのは危険だぞ?」
 そう注意するが、里中は山田に向けてパタパタと手を振って、
「大丈夫大丈夫。ちゃんと向こう向けてるから。」
 人が居ないほうを向けてると言い張る。
「いや、そういう問題じゃなくって……。」
 そんなやり取りをしているうちに、里中の花火にも火がつく。
 ボッ、と激しい音が鳴って、明るい色を豪快に吐き出す花火に、
「おーっ、豪快、豪快! これ、すごいっ!」
 里中が興奮した面持ちで、豪快に火を噴出す花火が人の手に触れない場所まで、横に移動する。
「あっ、本当っ! 里中さん、それってどれですっ!?」
 俺もやりたいっ! と手を挙げる上下に、自分が手に取った花火の形状を口にする里中を、山田は心配そうにハラハラと見つめる。
 その山田の真隣で、蛸田や香車が、殿馬の花火から直接火を分けてもらっていたが、山田の視界には入っていない。
 そんな山田に向かって、高代が連発花火を取り上げながら、
「山田さんはどうしますか? 何をします〜?」
 ウキウキした様子を隠そうともせず、両手に目移りしそうなほど色鮮やかな花火を持ち上げて、問いかけてくる。
 花火の明かりに頬を照らしながら、嬉しそうに目元を緩める里中を見つめていた山田は、すぐ横手からかけられた声に、ハ、と我に返ったように目を見開き、
「そうだな──。」
 楽しげな声をあげている里中を心配そうに一瞥してから、
「……それじゃ、線香花火でも貰おうかな……。」
「山田さん──線香花火は、最後にしましょうよ…………。」
 高代から呆れたような突込みを貰った。












 豪快に打ちあがる光の饗宴──殿馬が持って来ていたチャッカマンで、次々に点火されていく打ち上げ花火にロケット花火、噴出し花火にと、盛り上がる一方の花火大会。
 その楽しげな面々を他所に、少し離れた池の辺りで一休みをしている山田の下へ、里中が小走りに駆け寄ってくる。
 ホテルの窓からも遠いこの辺りに居ると、暗闇の中でひらめく花火の様子が良く見えた。
「あはははは! あー、面白かった。」
「里中、振り回すのは危険だぞ。」
 遠目にもしっかり見えていたんだと釘を刺す山田に、里中は興奮した面持ちで、明るく笑う。
「ゴメンゴメン。でもさ、渚も三太郎もすっごいムキになってくるからさ。」
 ついつられた、と悪びれず続ける里中に、何かあってからじゃ遅いんだぞと溜息を零して、山田は傍らに置いてあった数本の缶ジュースを手に取り、プシュ、とプルタブを開けた。
「ほら、ジュース。」
 そのまま里中に手渡すと、彼はニッコリ笑ってそれを受け取り、山田の隣に腰を落とす。
「サンキュ。山田は全然だな。さっきから見てる方ばっかりじゃないか。」
 最初の頃は一緒に花火をしていたのに、いつの間にかこんなところに引っ込んでるし。
 そうつまらなそうに唇を尖らせて、拗ねた様子を見せる里中に、山田は苦い色を佩いて首を竦める。
「そりゃ……打ち上げ花火の点火で懲りたからな。」
「あははは! だってもー、山田、遅すぎ。背中に少し浴びてただろ?」
 大丈夫だったか? と今更ながらに心配そうな目で見上げられて、山田は穏やかに頷く。
 浴びていたとは言っても、たかが花火の火の粉だ。火傷をするほどじゃない。。
「まさかあんな急に噴出してくるなんて思ってもみなかったしな。」
 花火の点火を終えて、慌てて戻ってくる途中──花火が自分の方に向けてコケタ時には、本当にどうしようかと思ったと零す山田に、アレを置いた渚と高代はちゃんと俺が占めておいたと、しれっとした顔で里中が答える。
 手の中のジュースを口に含んで、里中は山田を見上げると、
「でも、これであらかたやりまくったよな?」
 軽く首を傾げる。
 そんな里中の言葉に、そうだな、と頷いた山田は、ふと自分がやろうと持って来ていた花火の存在を思い出した。
 打ち上げ花火だとか噴出し花火だとか、ナイアガラだとか、ワイワイと派手なもので喜んでいる彼らを前に、パチパチとやるのもどうかと思ったので、この隅の方でやろうと思ってダンボールから持ってきたものの、結局手をつけてないものだ。
「山田?」
 顔を覗きこんでくる里中に、山田は少し照れたように笑って、脇に置いてあった花火を取り上げる。
「線香花火だ。」
 これはやっぱり、最後にするものかな──と、そう笑う山田に、里中はパチパチと目を瞬く。
 かと思うと、ニッコリと微笑み、彼は手の平を山田に向けて差し出す。
「線香花火? それ、おれ、好きなんだ。貸してくれよ。」
「そうなのか? 里中のことだから、派手なのばかりかと思ってた。」
 何せ先ほどから、岩鬼や微笑、渚たちと一緒になって、花火は振り回す、両手で同時に花火に火をつける、ネズミ花火を足で蹴る──だのと言った、山田をハラハラさせることばかりしていたのだ。
 大仰に驚いた様子を見せる山田に、なんだよ、と里中は唇を尖らせて、10本で一つの束になった線香花火を山田の手から取り上げ、巻きつけられたテープを解く。
 昔は、綺麗にテープが剥がれなくて、まとめて10本に火をつけたこともあったが──幸いにして今回は、綺麗にテープが剥がれた。
 はらはら、と手の中にバラけて落ちる線香花火を見下ろしながら、里中はその中の一本を取り上げる。
「小さい頃さ、母さんと一緒に……夏祭りの帰りに、アパートの前で必ずやったんだ。線香花火。」
 綺麗な浴衣を着て、微笑みながら歩く母の袖を引っ張って、花火を買ってとねだったあの夜。
 1袋200円くらいの、安い花火だったけれど、兄弟の居ない里中には、それだけで十分だった。
 ニッコリ笑って見守る母の前で、好きな花火を好きなようにつけて、母に見せて笑った。
「…………そっか。」
 同じようなことを思い出しながら、山田も目を細める。
「うん。
 ……はい、山田の分。」
「あぁ。」
 差し出された線香花火を受け取り、山田はその赤い先端を、ジ、と見つめた。
 それから、線香花火と一緒に置いてあったマッチを摺って、それぞれの線香花火に火を灯すと、すぐにそれはパチパチと懐かしい音を立て始めた。
 静かな音が、ぱちぱちぱち、と音をはじかせる。
 小さな火花が、形良く散っていくように見える。
 なんとなくソレを見つめながら、ふと里中は昔のことを思い出す。
 母と2人、今と同じように並んでしゃがみながら、線香花火を見下ろしていた。
「な、山田。」
「ん?」
 真剣に花火を見下ろしながら呼びかけると、すぐに山田から返事が返って来る。
「いつまで落ちないか、競争しないか?」
「競争?」
 問いかけてくる山田に、そう、と里中は頷く。
 昔、母とも同じように、「どちらが先に落ちるか競争だ」と、最後の二本を分け合って、そう言いあった。
 懐かしい、小さな思い出。
「そう──って、あ、もう珠になった。」
「おれのもだ。」
 線香花火の命は短い。
 慌てて里中は、ぷっくりと赤い珠を作る線香花火に意識を集中させた。

ジー……パチッ、パチパチッ。

 細い火花が線を描いて散る。
 小さな珠を中心に、今度は違う形の火花が散るのが、今でも不思議でたまらない。
 まるでその形が、雪の結晶のようだと思った。
「なんかこういう時って、指が震えてくるよな。」
 珠が落ちないように、そ、と唇を震わせるほどの声でささやく里中に、山田も同じように息を潜めて答える。
「そうだな。」
「山田はこういうの、最後まで落とさずに行きそう。」
 俺はなんだか、今にも落ちそうな気がする。
 そう零す里中に、
「そうかな。」
 と、山田は首を傾げる。
 そんな山田に、里中はほろりと解けるように笑った。
「うん、そう。どういう場面でも冷静だし……。」
 プレッシャーに指が震えることもなさそうだと笑いかけて──手の中の線香花火がフルリと震えたのに、里中は慌てて生真面目な顔を作る。
 そんな彼の横顔を見下ろして、山田は唇を横に引いて笑った。
「……そうでもないけどな。」
「そうか? でも、山田が動揺してるところなんて、滅多に見ないだろ?」
 首を傾げて自分を見上げてくる里中の、整った容貌。
 無邪気に自分を見上げてくる里中の瞳を見つめながら、山田は曖昧に笑った。
「そうでもないよ──いつだって、目一杯だ。」
 そう告白すれば──きっと里中は、その言葉の裏に隠れたイミなど、気づきもしていないのだろう──、里中は破顔して山田をまっすぐに見上げてくる。
「なら、山田はそれを上手く隠すのが上手いんだな。
 山田はキャッチャーとしてもバッターとしても、最高だよ、やっぱり。」
 まるで自分のことのように嬉しそうに顔をほころばす里中に、
「誉めすぎだよ、里中。」
 山田は苦笑を滲ませ、彼のまっすぐな瞳を見つめ返す。
「そんなことないさ。いくら誉めても足りないくらいだ。」
 口元に浮かぶ微笑みも、緩んだ瞳の笑みの形も。
 その何もかもが、ただまっすぐに山田を見詰め、捕らえる。
「おれ、やっぱり山田を選んでよかったって、いつもそう思ってるんだぜ。
 おれの目に狂いはなかった──日本一の恋女房に答えるためにも、おれは、今まで必死にやってこれたんだ。」
 そこで一呼吸置いて、里中は自信に満ちた目で、山田を見据える。
「……お前に恥じないピッチャーとして。」
 それは、やりとげたことへの、喜びと自信、そして──ほんの少し掠める、寂寥。
「…………里中…………。」
 一瞬、華奢に見えたその肩に、山田は手を回した。
 彼の左肩をしっかりと左手で握り示すと、里中は忙しなくパチパチと目を瞬く。
 その瞳の端に、暗闇の中、浮き立つ光るものが見えた。
「……ありがとう、山田。
 一時は高校野球を諦めた──けど、今こうして、最後の大会を終えることができた。
 おれは、本当に果報者だよ。」
 目元を緩めた瞬間、ホロリ、と里中の目から涙が一筋、こぼれた。
 その涙の筋を認めて、山田は驚いたように軽く目を見張る。
「里中……。」
「感謝してもしたりないくらいさ、本当に。」
 自分の左肩を握り締める山田の大きくて暖かい手に、そ、と自分の左手を重ねる。
 嬉しそうに──本当に嬉しそうに目を緩める里中の微笑みが、まるで自分を誘っているように見えた。
「それはおれの台詞だよ、里中。」
 静かに……ゆっくりと、山田は自分を見上げる里中の瞳を見つめ返す。
 高校野球を諦めていた俺の前に現れたライバル達。
 そして、たった一人。
「…………野球選手として、キャッチャーとして、おれを求めてくれた……嬉しかったよ、本当に。」
「でも、お前……おれに進学先を教えてくれなかったよな?」
 どこか拗ねたような口調で、里中が目を細めるのに、山田はグッと言葉につまる。
「それは──……。」
 軽く息を呑んだ山田に、里中はキュ、と顔を顰めた直後──ほろり、と解けるように笑顔になった。
「あははは、冗談だよ。そんな真剣な顔しないでくれよ。」
 そのまま、トントン、と山田の左手を指先で叩いて、里中は首を傾けるようにして自分の手と彼の手へと頬を摺り寄せる。
「たとえお前が進学先を教えてくれなくても──転校してでも、おれはお前の後を追っていくつもりだったさ。」
 悪戯めいた微笑みを浮かべて、ヒタリ、と山田の目を見つめながら、
「運命だからな。」
「………………。」
 ヒュッ、と息を呑んだ山田の目が見開かれるのが分かって、里中は照れたように目元を赤らめて首を竦める。
「──って、さすがに今言うと、なんか照れくさいな。」
 そのまま彼は、何も言わない山田から視線を落とし──あっ、と、小さく声をあげた。
 右手を持ち上げると、線香花火の先が黒くすすけていた。
「なんだ、もう落ちてるな。」
 持ち上げたソレを見て、先端が落ちたと思われる地面を見据えるが、落ちた珠が見えることはなかった。
 同じように山田も自分の右手に目をやるが、やはりそこもすでに黒くなっていて、珠は灯っていない。
「山田のも落ちてるじゃないか。
 これじゃ、先に落ちたのがどちらだったのか分からないな。」
「そうだな。」
 落ちた線香花火を地面に置いて、山田は里中のつむじを見下ろす。
 そのまま、彼の肩を抱き寄せると、里中は抵抗もなしに、ぽすん、と山田の肩に頭を預けてくる。
 彼は自分が右手に持った線香花火を、ヒラヒラと揺らして、
「……なんか。」
「ん?」
 どこかぼんやりと、里中は瞳を瞬く。
「線香花火って、しんみりとするよな。」
 睫を伏せた里中の顔は、どこか静かで、どこか寂しそうに見えた。
 自分がこれだけ近くに居るのに、彼は「現在」ではない、どこかを見ているような気がして、山田は里中の肩を抱く手に力を込める。
 線香花火は、どこかしんみりとする。
──だから華やいだ派手な花火の後に、やってしまうのだ。
「………………里中。」
「……ん?」
 呼びかけると、彼は億劫そうに顎をあげて山田を見上げる。
 その白い細面を見下ろして、山田は首を傾けるようにして──、

チュ。

 触れるような優しいキスを一つ。
 羽根が優しく触れて通り抜けていったような感触に、里中は小さく目を見張り──見る見るうちに目元や頬を、真っ赤に染め上げた。
「──……里中?」
「────────…………っ、ずるい、山田。」
 喉を引き絞るように呟き──里中は、キュ、と手を握りこむ。
「……何が?」
「ココ、どこだと思ってるんだよ? ホテルの中庭だぞっ?」
 闇夜にも分かるほどに赤く染まった里中の頬や唇が、もう一度と誘ってるような気がして、そのままもう一度唇に触れるだけのキスを落とすと、彼はますます真っ赤になって、パクパクと口を開け閉めする。
「うん、そうだな。」
 穏やかに笑う山田をキッと見上げて、里中は焦ったように向こうではしゃいでいるチームメイトたちを見やる。
「みんな、そこに居るんだぞっ!?」
 悲鳴に近い声をあげる里中の火照った唇に、シ、指先を押し当てて笑いながら、
「見えてないよ、暗いし。」
 大丈夫だと、根拠のない自信たっぷりの囁きをもらす。
 そんな山田を、里中は羞恥に染まった目で睨みつけていたが──、
「…………ばか。」
 キュ、と唇をしぼめるようにして、そう呟く。
「里中?」
 驚いた様子で顔を覗きこむ山田に、里中は熱い息を零しながら、コトン、と再び彼の肩に頭を預ける。
「──なんか、おればっかり慌ててるみたいじゃないか。」
 もう、と零れる里中の髪が、ふわふわと自分の顎のラインで揺れるのを感じながら、山田は項を手の平で撫で上げた。
「そうでもないぞ。」
「どこが!」
 打てば響くように返って来る里中の声に、山田はさらに照れたように頬を掻きながら、彼を見下ろした。
 顎を逸らして、肩に後頭部を預けるようにして見上げてくる里中と視線がぶつかる。
「いつも目一杯だって言ってるだろ、里中?
 おれだって──結構、参ってるんだから。」
 クシャリ、と彼の髪を掻き乱すと、里中はパチパチと目を瞬く。
「……は?」
 何の話だと、首を傾げる彼の髪から漂うシャンプーのいい香りが、ふわふわと鼻先に漂ってきて──参ったなぁ、と山田は胸のうちだけで続ける。
「少しは自覚してくれ、里中。」
「──……何を?」
「だから──……いや、そうだな。」
「ん?」
 ジ、と自分を見上げてくる大きな目を見下ろして、山田は里中の肩を撫でると、
「…………行くか、里中?」
 そう、静かに微笑んで、問いかけた。
 里中は、突然の山田の言葉に驚くこともなく、ただ、ジ、と彼を見上げると──、
「うん。」
 ニッコリと笑って、ともに立ち上がった。















 花火に夢中になっているチームメイトたちを置き去りにして、庭から直接ホテルの入り口に抜ける。
 そのまま狭い道路に出ると、時間が遅いせいか、夕方には見受けられた記者もファンの姿も見当たらなかった。
「どこに行く? 山田?」
「いつもの道を行くか? ──明日はもう、行っている余裕はないだろうしな。」
 クルリと周りを見回していた里中に右手を差し出す。
 里中は迷うこともなくその手を取り、芦屋旅館に泊まっている間は、いつも一緒に走っていた道を、今日は隣り合って歩き始めた。
 空を見上げると、紺碧の空に瞬く星と、大きな月。
 夏の濃厚な匂いが残る夜は、まだ蒸し暑い──けれど、昼間ほどの体が溶けるほどの熱さはない。
 ただ、心地良く過ごしやすい風が微かに吹き荒れるだけ。
 ゆっくりと歩きだすと、すぐにホテルの喧騒が遠ざかった。
 昼間とは違う顔を宿す道を、手をつないで歩きながら、口にするのはこの高校三年間の野球部の話。
 一番記憶にある試合はいつのことか、あの試合の時はああだった。この試合のときは──……。
 語り始めれば、一晩や二晩では終わらないほど、濃厚で強い感情が、たくさんある。
 明日の朝一番の新幹線で神奈川に帰れば、その駅の外ではこの優勝の祝いのパレードがあって、また祝勝会があって。
 そして今度は、それでおしまい。
 合宿所に帰って、歴代の三年生がしたように、部屋の片付けに入るのだ。
「……長いようで、短かったな。」
 キュ、と山田の手の平を握り締めて、家の明かりが少なくなるほどに、瞬きを強くする星を見上げて里中が呟く。
 三年間。
 その中の、たった2年半。さらにその中の、たった5度の甲子園。
 まだ高校生活は残っていて、さらに言うならば、ここから帰ったら、現実が色々と待ち受けてくれているだろう。
 優勝したことなんて、頭から吹っ飛んでしまうくらい大変かもしれない──昨年の山岡達の様子を見ていた時も思ったけれど。
「──……そう、だな……。」
 握られた手を握り返しながら、山田は里中と同じように頭上の星を追った。
 2人で今のように星を見上げた夜は、どれくらいあっただろう?
 照明のないグラウンドで、星が見えても尚、投げ続けたときもあった。
 室内練習場で、日付が変わるくらいまで練習したときもあった。
 ただ何もせず、2人でマウンドの上で星を眺めていたときもあった。
 見上げた空は、そのどのときとも同じように見えて、まったく違うようにも見えた。
「お前と会ったあの時から──本当に、あっと言う間に過ぎて行ったな…………。」
「ぅん? あの時か? 必死だったなぁ、俺。」
 今だから、笑って話せる。
 そう断言する里中に、確かに必死だったな、と山田は苦笑めいた笑みを覚える。
 ──それが君の運命だから。
 貪欲なまでの強い光を潜めた瞳で、ただ強く山田を見据えた里中。
 もしかしたらあの目を見たときから、俺はどこかで知っていたのかもしれない。
 ──今なら、そう思う。
 里中があの時おれを訪ねて来てくれたのは……運命だったのかな、って。
「俺、山田がいなけりゃ、おれの高校野球はないと思ってたんだ。
 ──今だから言うけど、山田が高校に進学しなかったら、おれも……高校に行かなかったかも。」
「里中……!?」
 驚いて見下ろした先で、里中は月明かりに映える白い肌で、ニッコリと笑う。
「だってさ、お前以上のキャッチャーはどこにも居ないって思ってたし、お前に惚れた以上、他のキャッチャーで満足できるわけないじゃん。」
 実際、そう言い切って、土井垣を徹底的に拒んだ里中である。
 土井垣は確かにいい捕手でいい主砲かもしれないが、里中にとっては山田以外はどうでもいい捕手で、どうでもいい主砲なのだ。
 一度「山田」と言う男を見てしまったら、どんな捕手を見ても、それで満足できるはずがない。
 里中はきっぱりとそう言い切り──実際にそれを実行してきた。
「それに俺は、それくらいなら、働いて母さんを楽にさせてやることを選んだよ。」
 けれど、山田が高校に進学しない「もし」なんて、もう存在すらしない。
 里中はそう言って微笑む。
 握った山田の指先に自分の指を絡め、キュ、と握った。
「──だから、今のおれは、すっごく幸せで……幸せすぎて、どうしようかと思うくらいだ。」
 幸せそうに笑う里中の顔が、月明かりの下でひどく綺麗に見えて、山田は前へ進みだそうとしていた足を止めた。
「里中…………。」
 脚を止めた山田に、同じように里中も足を止めて、彼と正面から向かい合った。
 そのまま、促すように山田とつないでいない手を差し出し、両手でお互いの手をしっかりと握り合う。
「お前に会えて、俺は幸せだよ。……お前を選んで、本当に、良かった。」
 自分の温もりを分け与えるように、しっかりと強く握り締める里中に、山田もそれに答えるように強く──強く握り返す。
「──……里中……お前はいつも俺を喜ばせるのが上手いな、ほんとうに。」
 照れるように笑って、山田は一瞬視線を繋ぎあった手の平に落とす。
「やまだ?」
 キョトン、と問い返すように見上げる目を見つめ返して──山田は、うん、と頷いた。
「……俺も、お前に出会えて幸せだよ。
 甲子園だとか、勝負に勝てただとか、それ以前に──お前の闘志やお前の強さに、いつも救われた。」
「山田……。」
 軽く目を見開く里中の額に、コツン、と自分の額を合わせて、山田はさらに微笑を深くした。
 すぐ間近に見える里中の目が、幸せそうな笑顔を浮かべている自分の顔を映し出している。
「里中、おれにこそ言わせてくれ。」
 キュ、と握った手にさらに力を込めて、山田は心から囁く。
「──ありがとう。」
 お前に会えて、良かった。
「やまだ…………。」
 里中は、小さく目を見張り──すぐに彼は、喉に詰まるような熱を感じて、大きく息を吸い込み……、
「山田っ。」
 キュ、と目を閉じて、山田の肩口に、自分の顔を押し付けるようにして、抱きついた。
 熱い瞼が、喉が、潤う目が……何もかもが。
「だいすきだ……っ。」
 ただ、それだけを、叫んでた。
















 その事実に気づいたのは、渚が一番初めだった。
 手にしていた花火に火を灯しながら、キョロリと周りを見回して、
「……あれ? 山田さんと里中さんが居ないっすよ?」
 首を傾げる渚に、高代もその事実に今気づいたと言うように、驚いた様子で彼と同じようにあたりを見回す。
「あ、本当だ。どこに行ったんだろ?」
 けれど見回したに庭にも、大平監督が座っているロビーにも、2人の姿はない。
「まさか、また突然投げたくなったとか言って、表の道路で投げあいとかしてないだろーな〜。」
 微笑が呆れた様子で、庭の真上にある自分たちの部屋を見上げる。
 そこの広いコンクリートのベランダの上から、ボールの音が聞こえてくるんじゃないかと、半ば本気で思った。
「ありえますね、あの二人なら。」
 うんうん、と頷く蛸田に、ありえるっすよねー、と相槌を打つ一同。
 渚はしょうがないな、と言いたげに腰に手を当てると、身軽に起き上がって、
「最後の打ち上げ花火をあげるって言うのに……探してくるか、しょーがない。」
 そんなことを呟く。──と、同時。
「やめとけ、づら。」
 感情の篭っていない言葉で、殿馬が「警告」を発する。
 彼は手にしたススキ花火をバチバチと鳴らしながら、顔だけ渚に向けて、
「……ホテルに居るとはかぎらねぇづらよ。」
 まるで彼らが消える瞬間を見ていたかのようなことを口にする。
 その殿馬に、それはどういうことですかと、眉を寄せて問いかけた渚に、
「ナギー! はよぅ火ぃ持ってこんかい! わいをいつまで待たせるつもりや!!」
 打ち上げ花火を手にした岩鬼が怒鳴る。
 早くチャッカマンを持ってこいと怒鳴る岩鬼を、渚は肩越しに振り返る。
「はいはーい! キャプテン、ちょっと待っててくださいよー!」
 岩鬼は、自ら打ち上げ花火を手にして、その手から最後の花火を発射させるつもりなのだ。
 ちなみにこの行為は、打ち上げ花火本体にも「するな」と書いてあるし、良い子でも、良い子じゃなくても、真似をしてはいけない危険事項である。
 ここに山田が居たら、烈火のごとく注意したかもしれないが、残念ながら山田は今、里中と夜のお散歩中であった。
「おっ、やる気満々だな、岩鬼。」
 手の平を額に当てて呟く微笑の視線の先では、岩鬼が打ち上げ花火の筒をバットのように掲げ持って、月に指し示している。
「開幕ホームランの後は、逆転サヨナラホームランのつもりですかね?」
 首を傾げる上下のたとえに、それもアリかと頷く一同。
「最後くれーよ、岩鬼にしめさせてやるのもいいづら。」
 そうしないと後がうるさい、という先の言葉は飲み込んで、殿馬は終わった自分の花火を、ジュ、とバケツに突っ込む。
 そのバケツの水も、ずいぶんとにごり、バケツの縁に沿って花火の柄で大輪の花が咲いていた。──あまり綺麗じゃない光景である。
「──それにしても山田さんと里中さん、いいのかなぁ、最後の見なくて。」
 渚がしぶしぶチャッカマンを持って岩鬼の方へと駆けて行くのを見ながら、のんびりとジュースを飲みつつ、高代が呟く。
 その心配げな表情を見下ろして、微笑はちょうど良い高さにある彼の頭を撫でてやってから、穏やかに笑った。
「あの二人には、それ以上にあるんだろ、何かがさ。
 ──なんてったって、『偉業の全国制覇4回』を成し遂げた、黄金バッテリーなんだからさ。」
「づら。」
 殿馬も同意するように頷く。
 そんな──なんだか何もかもを理解しているような様子を見せる先輩達に、高代は胸をなでおろすような安堵を感じながら、そうですよね、と笑った。
「全国制覇4回、なんですよね……すっごい、ですよね〜。」
「おいおい高代。おれたちもその一員なんだって、自覚持てよ〜。」
 すかさず後ろから、呆れたような香車の声が飛び、
「それに、今年はおれたちが主役、なんだからなっ。」
 渚が岩鬼にチャッカマンを差し出しながら、噛み付くように怒鳴る。
 確かに確かに、と頷いて、微笑はニコヤカに最後の締めくくりをしてくれるだろうキャプテンに目をやった。
 ここに最大の貢献人たる山田も小さな巨人も居ないのは寂しいが──あの2人にとっては、案外どうでもいいことなのかもしれない。
「さぁって、岩鬼! 最後はど派手に締めくくってくれよーっ!!」
 盛り上げるかのように叫ぶと、岩鬼が打ち上げ花火を片手で前に突き出し、
「じゃぁかしぃわい! んなこと言われんても、わかっとるわいっ!
 それじゃ、行くぞ、ナギ!!」
 そのまま導火線を渚に向けて突きつける。
 チャッカマンを手にしたままの渚は、目の前にタラリと垂らされた導線を見つめて、うんざりした顔になった。
「……俺かよ……。」
「点火じゃーっ!!!」
 近所に響き渡る声でそう叫ぶ岩鬼に、
「ハイハイ。」
 やる気なさげに、渚はチャッカマンの引き金を引いた。
「はい、は1回!」
 ビシッ、と響き渡る声。
「はいっ!!」
 それに姿勢を正して答えた後、渚は岩鬼が持つ打ち上げ花火の導線に、火を放った。







 ヒュー……………………────ドォォンッ!!!








 夏の夜を締めくくるかのような、盛大で美しい……大きな花火が、芦屋旅館の看板を、華やかに照らし出した。








+++ BACK +++



花火大会……も書きたかったけど、ソッチじゃなくって。

原作顔負けの、こっぱずかしい台詞を吐く里中って言うのを書いてみたかったんです…………。
ただそれだけなんです……。


すみません、こんなのが最後の作品で……。




花火大会の削ったエピソード↓





「んもーっ!!」

シューポッポッポッポ!!

「ぅわーっ! い、岩鬼さんが、口から火を噴いたっ!!」
「わわっ、アツッ! アツイーっ!
「って、岩鬼ーっ!? 何やってるんだっ、危ないだろうっ!?」
「バカはおだてりゃやるづらな。」
「って、水っ! 水だっ!」
「すっげー、煙が耳から出てるぜ、おい。」
「やりすぎだろ、ありゃっ! ほらよっ!」

ばっしゃーんっ!

「だ、大丈夫ですか、キャプテンっ!?」
「だっれに物言うとるんじゃい! これくらい平気にきまっとろうがっ!」
「さすがキャプテンづら。」
「よっ、男・岩鬼、日本一っ!」
「里中、煽るなよ……。」
「いや、しかし、さっすが岩鬼だよな…………絶対、ほかはしないって、マジで。」
「ふつーの人は、しませんよね…………。」
「口に花火だぜ……やらないよな。」





──翌朝。

「ほらっ、お前ら、とっとと起きろっ! 朝だぞっ!」
「うぅ……里中さん、元気ですね〜。」
「そりゃ、熟睡したからな。疲れももう残ってないぞ。」
「スタミナが違いますな〜。」
「これくらい体力がなけりゃ、9回は投げきれんぞ、渚。」
「よー言うわい。しょっちゅうぜぇぜぇ言うとった虚弱児が。」
「何をっ!? ……って、珍しいな、お前がおきてくるなんて。
 明日は雨か?」
「がくぅー!」
「ほら、里中。じゃれてないで、着替えるぞ。朝風呂に入るって言ってたじゃないか。」
「あ、そうだった。昨日は帰って来るのが遅かったから、風呂に浸かっただけだしな……。」
「……………………。」
「…………………………────────。」
「────………………。」


色々な沈黙を呼びながら、完。