同棲生活 第二









 明訓高校の野球部合宿。
 とうとう異例の甲子園4回優勝を誇った3年生達が、退宿する日が近づいていた……そんなある日のことだった。
「そういえば智、お母さんの調子はどうなんだ?」
 朝食の席で、そんなことを微笑が言い出したのは。
 聞いてくる微笑の顔には、いつもと同じ微笑みが昇っていたが、少しばかり心配するような色があった。
「まだ、もうしばらく入院しなきゃいけないみたいだ。」
 少し困ったような顔で答えて、里中は朝食にため息を一つ零す。
 そのため息は、母を心配する子供のもののようにも見えたが、苦悶の色にはそれだけじゃないような色も見えて、心配そうにメンバーが里中を見つめる。
「お母さんの容態、良くないのか?」
「あ……いや、そうじゃないんだ。
 病状は回復に向かってるし、この冬には退院できるだろうって先生は言ってるんだけど、問題はそこじゃなくって。」
 そこで一度言葉を止めて、里中はそれを説明していいものかどうか、悩んだような表情になる。
「里中。」
 そんな里中を、山田が心配そうに名を呼んだ。
 里中は、小さく笑って、母さんのことじゃないんだ、と、はっきりと続けた。
「ただ、ほら──おれ、学校を辞めるつもりで居たときに、アパートも引き払ってるだろ?」
 問題は、ソッチなんだ、と──そう、続ける。
 その瞬間、……あ、と、なんだかんだ言いながら箱入りの高校生達は、ようやく里中が何を憂いているのか、に気づいた。
 次の日曜日には、3年生達はこの合宿所を出て行かなくてはいけない。
 けれど、里中には……今現在、帰る家がないのである。
「サト、キャディーやっとったんやろ、そんときは、どこに住んどったんや?」
「住み込み。空いてる時間は、ほとんど病院にいたし──。」
 だから、キャディを辞めてしまった今は、本当に帰るところだない。
 春先にアパートを引き払い、そのまま母の入院する病院近くで住み込みの仕事を見つけ──母の手術が成功した足で、この合宿所に帰ってきた。
 あとは、あれやこれやと言う間に甲子園に行って、優勝して帰ってきて──気づけば、合宿所の出宿は目の前に迫っていた。
 このような状況で、新しいアパートなど探せるはずもない。
「って、そりゃ大変じゃないか!」
「前のアパートには戻れんづらか?」
 驚いたように目を見張る微笑に、殿馬が続けて聞いてくる。
「もう次の入居者が決まってて、ムリだった。
 ま、いざとなれば、冬まで野宿とか考えてたんだけどな……。」
 笑いながらそんな不穏なことを呟く里中に、絶対反対、と渚や高代たちから手が上がる。
「それくらいなら、おれたちが学校に直談判して、里中さんが合宿所に残れるようにお願いします!」
「そうですよ! これだけの功労者の里中さんを追い出すなんて、そんな冷たいことは絶対に言わせませんっ!!」
 断固それで行きます、と、今すぐにも校長の所に走っていきそうな二年生’sに、おいおい、と里中は慌ててそれを止めた。
「考えてたって言っただろ? 実行はしないよ。」
「でも、住むところは決まってないんでしょう?」
 渚が打てば響くように返して──あ、そうだ、と、イイコトを思いついたように笑った。
「それなら、里中さん、うちに来たらどうです? 空いてる部屋ならたくさんあるし、父さんも、里中さんならぜひって、喜んでくれると思うんです。」
 ニコニコ笑って、どうですか? と、胸を張って提案してくる。
 そんな渚にしかし、里中は困ったように首を傾げて、ゆるくかぶりを振った。
「いや、いいよ、そんな迷惑はかけられないし。」
「何水臭いことを言ってるんですか、里中さん。別にアパートが決まるまでの間だけですし……あ、いえ、その後も居てくださっても構わないんですけどねっ。」
 最後の一言に、異様な力が入っているのに、食堂にいた面々は、少しばかり遠い目になった。
──渚の思いの片鱗を、見てしまったような気がした。
 そうか、渚……お前、彼女作らないと思ったら………………。
「いいって、本当に。」
 アッサリと、里中は、そんな渚の好意を断り、それに──と、視線を山田に向けて、はんなりと笑った。
「母さんが退院するまで──山田が、うちに来いって言ってくれてるしな。
 それに甘えるつもりなんだ。」
 里中の視線を受けて、山田は穏かに微笑んで、うん、と一つ頷く。
「里中も、慣れない家で1人暮らしするよりは、そのほうがいいだろうしな。」
 何せ、山田は合宿所で同室。
 さらにその上、サチ子はこの上もなく里中になついている。
 何も問題はない。
 そう笑って見詰め合う山田と里中に、
「…………ずるい、山田さん…………。」
 ぼっそり、と、渚が小さく零した。
 その落胆の声が、誰かの耳に入るよりも先、
「って、ちょっと待てや、里! あんなちっこい家に、四人も住めるかいなっ!」
 岩鬼が、大げさにバンと机を叩いた。
 そんな助け舟(?)に、渚が諸手を叩いて、そうですよっ、と、叫んだ。
「何言ってるんだよ、しょっちゅう、うちに泊まりに来てるじゃないか、岩鬼は。」
 だがしかし、呆れたように言う山田のほうが、正論であった。
 合宿所から一時撤退しなくてはいけないときに、岩鬼は自宅に帰るのがイヤで──別に家族が嫌いなわけではなく、単に居心地が悪いだけなのだろう──、しょっちゅう山田の家に泊まりに来る。
 その、「しょっちゅう」のペースを思えば、里中が泊り込むくらい、なんでもない。
「そうそう、だから、しばらくは岩鬼は、山田の家に出入り禁止な。」
 里中は、がーん、とショックをあらわにする岩鬼に笑いながら、ポンポン、と彼の肩を叩いてやった。
「な、なんやとっ! このスーパースター岩鬼さまが、わざわざあんなおんぼろ家に泊まりに行ってやっとんのに、なんや、その言い草はっ!」
 くーっ、と、悔しげに叫ぶ岩鬼に、山田が笑いながら、
「でも、夕飯くらいは食べにきてくれよ、岩鬼。
 じっちゃんも大勢の食事の方が楽しいって言ってくれるし、岩鬼が来ると、食事が楽しいしな。」
 里中が叩いた肩とは反対の肩を、ポンポンと叩く。
「そりゃ、豪勢な食事で出迎えてくれるんやろなぁ?」
 そんな山田を、チラリ、と見下ろして、期待に満ちた眼差しになる岩鬼に、そりゃもちろんさ、と山田が頷いた瞬間、里中は、がしっ、と岩鬼の手を握り締めた。
 ギョッ、とする岩鬼に、真摯な眼差しで、
「いつでも大歓迎だ、岩鬼っ!」
 そう叫んだ。
 そのあまりの剣幕に、は? となる面々に対し、山田の目が据わった。
「──……里中。」
 1オクターブほど低くなった声に、びくぅっ、と渚たちが肩をこわばらせるのを他所に、
「お前の大嫌いなサンマを焼いてやるからっ!」
 里中は、岩鬼の顔を覗きこんで、そう力説した。
 とろり、とよだれを覚えて相好を崩す岩鬼に、よし、と、里中は密かに握りこぶしを握った。
 これで、山田家の「魚地獄」の半分くらいは、クリアしたはずだっ。
 そんな里中の考えは、彼の魚嫌いを知る山田たちにとって、あからさま過ぎた。
 ──というか、
「里中……。」
 ジロリ、と睨みを効かせて来る山田に、うっ、と短く里中は呟いた後──、しぶしぶ、頷いた。
「わかってるよ、ちゃんと自分の分は自分の分で、食べる。──それでいいんだろ?」
 結局、山田には弱い里中なのであった。
 シュン、と肩を落とし、あーあ、と呟く里中の、見た目にもあからさまなガッカリのしように、
「って、智が悩んでたのって、山田の家の魚事情か?」
 思わず呆れた口調で、微笑が突っ込んだ。
「いや──……まぁ、この機会に魚を食べれるようにならなくちゃとは思ってるけど。」
 そんな微笑に睨みかえす気力もなく、里中はフルリとかぶりを振った後──目の前の朝食に手を付け始めながら、うーん、と一つうなった。
「ソッチじゃなくって、山田の家から出たあと、どうしようかな、って言う方。
 ほら、アパート探しは始めたほうがいいだろ? でもさ、就職とか進学とかが関係してくると、また引越し……ってことになりかねないし。」
「敷金礼金もバカにならんづらからな。」
「引越し代もな。──ってまぁ、うちは荷物が少ないからいいけど。」
 何せ、母の入院の時に、家財道具は全て売ってしまっていた。
 持って歩くのは、着替えくらいのものだとそう言って……里中は、もう一度ため息を零す。
 その複雑な胸の内を思うと、口を挟むのはためらわれて、そっか……と、そう呟くことしかできなかった。
 黄金バッテリーと呼ばれ、常勝明訓の片翼を背負ってきた彼は、充分プロ野球でも通用すると──そう、思っている者も少なくはない。
 山田は確実にドラフトで1位指名されるであろうし、殿馬の存在は誰もが欲しがるだろうが──彼は高校を卒業したら、ウィーンにでも音楽留学してしまう可能性も大である。
 ぞくに言う『山田世代』の他の選手のことを思えば、里中は案外埋もれてしまう可能性も考えられる──特に彼は、故障が多すぎたから。
 それでも、山田とバッテリーで欲しい、と思う者もいるはずだ。
 そして──里中自身も、できれば……と、そう願っている気持ちがないわけではないだろう。
 就職か、進学か、プロか。
 その三つと、とりあえず目の前に横たわる現実「引越し」との間で、悩んでいるのだ。
 こればっかりは、何か手伝いを申し出ることもできない。
 絶対プロに勧誘されると言えるわけでもないし──、
「まぁ、でも、どうするにしても、野球を続けてくことには変わりないんだけどな。」
 しんみりと里中の言葉を噛み締めるナイン達に、ニッコリと里中は笑って、辛気臭い顔してるなよ、と続けた。
「里中の成績なら、大学も楽勝づら。」
「それ以前に、野球の推薦でも入れるだろ。──それで行くなら、就職も大丈夫だよな。
 っていうか、選り好みできるぜ。」
「そうですよ、里中さんっ!」
 慰めようとしているのか、そんなことを言ってくれる仲間達に、小さく笑って、そうだな、と里中は続けた。
 ──山田がプロに行くのなら、おれもプロで……彼とともに、と、そう思う気持ちがないわけではない。
 それなら、今の自分ではムリだ。
 ノンプロに行くのもアリだとは思う。大学でさらに活躍をしなくてはいけないと思う。
 でも、それ以前に。
 …………母1人、子1人。そして母は、まだガンの再発と闘っている。
 おれの故障のために、ムリをした借金も……残ってる。
 考えれば考えるほど、どうしようかと、揺れる気持ちが大きくて──まだ、決断を下せないでいた。
「まぁ、ぼちぼち考えてくよ。
 とりあえずは──。」
 アルバイト先を探さないと……その言葉は、ここで言う台詞じゃないから、コッソリと胸の中で吐いて。
「山田の家に嫁に行く日のために、魚を食べれるようにならないとなっ。」
 あえて、そう──口にしてみた。
 瞬間。

どごっ!!

 当たり一面で、机にしたたかに額を打ち付ける人が続出した。
「……ん?」
 里中が見回した周囲の、みんなと言うみんなが、なぜか机と痛そうな挨拶を交わしているのに、里中は不思議そうに首を傾げる。
「何やってるんだ、おまえら?」
「──……さ、さとなか…………。」
 疲れたような、そんな呟きで名前を呼ばれて、
「なんだ、山田?」
 里中は、首を傾げて彼を見下ろした。
 そんな里中に、「なんだ、じゃないだろ、なんだ、じゃっ!」と、机に突っ伏したまま立ち上がる気力もないナイン達が心の中で突っ込むが、それは里中に届くことはなかった。
「いや──その……嫁って……お前…………。」
 疲れたような微笑みを顔に張り付かせる山田の、困ったような顔に、里中は不思議そうに目を瞬いた後、あ、そっか、と、納得したように頷く。
「嫁入りじゃなくって、男同士は養子縁組だから、婿入りの間違いだったな、悪い悪い。」
 あはははは、と、明るく笑う里中に、いや、そーじゃなくって……と、それ以上突っ込む気力は山田にもなかった。
 そのまま、再び他のメンツと一緒に机の上に突っ伏す。
「──……そんなに驚くことか……?」
 1人、この現象を理解していない里中だけが、そんな面々を不満そうに見渡した。
 机に顎をついたまま、フルフルとハッパを震わせ──岩鬼は、
「やぁーまだ、なんとかせぇ、あれ。」
 彼にしては珍しい、げっそりした声で呟き、
「さ、さっすが智は、爆弾発言が得意だなぁ〜。」
 あははは、と、微笑が疲れたような空笑いをして。
「……──結婚行進曲づらか……。」
 ちょっとばかり疲れた殿馬も、椅子にどっかりと深く腰掛けたまま、そう──零した。
 里中の意思に反してかそうではないかはさておき、彼の爆弾発言は、それぞれの心に強いダメージを与えつつ──やがて、お引越しの日曜日がやってくるのである。







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明訓名物バカップル&里中君大暴言の巻(笑・名物なんですね)。
里中のお母さんは、どう考えても冬くらいまでは退院しそうにないので、里中は一人で引越しとかするかなぁ、と思ったら、自然とこう思いました。
何せ、今の里中家には金銭的余裕がありませんからね! ──病院に泊り込む以外は、これしか……(笑)。

ドカベンは、こういう私生活妄想の宝庫です。