修学旅行前日夜







 学校行事の前夜というものは、いつもなんとなく落ち着かないものだ。
 全ての準備を終えて、あとは眠って朝を待つだけ──特にそういう時は、なんだか落ち着かなくなる。
 全国大会で甲子園に向かうときは、前日の練習疲れでグッスリ眠ることが出来たが──あぁ、それでもやはり、一年生のときは、落ち着かなかったな、と思い出す。
 同室の里中と、お互いに寝付けなくて、何度も寝返りを打ち合った覚えがある。
 なのに、二人揃って諦めて起きて談笑するということすらしなかったのだ。
 今ならきっと、寝付けないなら寝付けないで諦めて、二人で話すなり、談話室や食堂に移ったりするのだろうが。
 最も今日は、そんなこともない──なぜなら、ここは里中と同室の合宿所ではないからだ。
「お兄ちゃんっ! どうだ、準備は終わったか?」
 ドンッ、と山田の背中に体当たりをして、ヒョッコリとサチ子が顔を覗かせる。
 そのまま太い首に細く華奢な腕を回して、サチ子はニコニコと笑った。
 久し振りに兄が自宅に居るのが嬉しいのだろう──毎日なんだかんだと顔を合わせているくせに、今日はイヤにベタベタと引っ付いてくる。
 なんだかんだ言って、サチ子はさびしいんだと分かっているから、なるべく会う度に抱きあげてやったりはしているが、それで足りないだろうことは、山田も良く分かっている。
「うん、もう終わるよ。」
 サチ子の好きなようにさせてやりながら、山田は荷物の確認を終えたバックにチャックをした。
 そんな山田を見上げて、それなら、とサチ子は彼の腕を取った。
「じゃ、それが終わったら、お風呂に行こうよ!」
「お風呂って……もうかい?」
 明日の修学旅行のために、野球部の二年生たちは早めに部活を終了して、合宿所から引き上げてきている。
 日も暮れないうちに練習が終わるのは、どれくらいぶりだろうとそう軽口を叩く部員達と別れたのが、つい先ほどだ。外はまだ薄暗い程度で、実を言うと山田家は夕食もまだだった。
 呆れたように自分を見上げる兄に、サチ子は両手を腰に当てて眉を杖井挙げた。
「明日は朝から早いんでしょう? 今から行って、早く寝ないと、遅刻しちゃうぞ!」
「でもサチ子、まだ夕飯も食べてないんだよ?」
「そっか、ならしょうがないな。夕飯の後にしてやるよ。」
 顎を逸らして目を閉じて、そうすました声でサチ子は答えた。
 がく、と肩を落とす兄には構わず、そのままサチ子はエプロンを手に取ると、
「じゃ、今日は久し振りにお兄ちゃんと一緒の夕飯だから、腕によりをかけるね!」
 ニッコリと満面の笑顔で振り返り、そのままスキップでもしそうな勢いで、鼻歌を歌いながら台所へと消えていった。
 それを見送り、山田はバックを玄関の近くに置く。
 時間があるときは、もう少し自宅に帰ったほうがいいかな、とチラリと思わないでもない。
 あまりにもしょっちゅう、小学校が終わったらすぐに合宿所に来て、一緒にお風呂に入っているから、サチ子との触れ合いが少ない、という感覚がなかったけれど、サチ子からしてみたら、そうではなかったらしい。
 少し、寂しい思いをさせてたな、と、シンミリと思った。
「太郎、準備は終わったのか?」
 不意に背後から声をかけられて振り返ると、祖父が畳の上に上がってくるトコロだった。
 ちょうど仕事が一段落したのだろう。外したエプロンを丁寧に折りたたんで、いつもの場所に置く。
 そんな祖父を振り返り、うん、と山田は頷いた。
「大丈夫だよ、じっちゃん。」
 そのままニコニコと笑うと、そうか、とじっちゃんは頷いて、チラリ、と台所の方へ目をやった。
 いつになく上機嫌のサチ子が、鼻歌を歌いながら、今日買ったばかりの焼き魚を火に掛けているのが見えた。
 それを認めてから、
「太郎、ちょっと来い。」
 クイ、と、手招きしてから、先ほどまで自分が居た仕事場の方へと歩いていく。
「なんだい、配達かい?」
 中学時代は、良く畳の配達を手伝ったものだが、高校になってからは、野球部の方が最優先になってしまって、そうも行かなくなった。
 だから、せめて自分が家に居る間くらいは手伝うよと、シャツの袖を捲ってじっちゃんについて仕事場へと降りた。
 下駄を引っ掛けて降りた先──しかし、そこにはできたての畳らしいものはなかった。
 あれ、と首を傾げた山田の前で、じっちゃんはもう一度台所を見てから、彼の手を取った。
「ほれ、持っていけ。」
 くしゃり、と、紙めいた感触が山田の手の中に握らされる。
 お守りか何かかと、手の平を開いた瞬間──山田は、驚いたように祖父を見上げた。
「じっちゃんっ、いいよ、こんなの……っ。」
 慌てて押し返そうとする山田の手を、強引に押し戻して、じっちゃんは頭を振った。
「遠慮なんぞするもんじゃない。
 全国大会はそんな暇がなかっただろうが、今回は修学旅行じゃろう? 小遣いくらいはいる。持っていけ。」
 山田の手を、自分の手で握り締めながら、じっちゃんは孫の細い目を覗き込む。
「いいか、太郎。遊ぶために小遣いを渡すんじゃない。
 お前がそのつもりなら、わしは最初からお前に渡したりはせん。」
 ギュ、と、強く握る祖父の節ばった手のぬくもりを感じながら、山田はジ、とじっちゃんの顔を見上げた。
 もともと頑固な祖父は、うん、と山田が頷き、それを受け取るまで、手を離すつもりはないようだった。
 ためらうように視線を落とし、年齢が強く出てきた気のする祖父の指を見つめた。 その手から覗く自分のふっくらと大きな手には、自分の家の生活を考えれば、決して痛くはない金額の紙幣が握られている。
 考えて──目を伏せる。
「なぁーに、心配せんでも、最近景気がいいんじゃよ。
 これくらい、なんでもないさ。」
 朗らかに笑うじっちゃんの言葉に、山田はようやく、小さく笑い返すことができた。
 じっちゃんは、いつも心配をかけさせまいとしてくれる。
 それがウソか本当かなんてことは、サチ子に聞けば分かることだが──、自分を心配させまいとするその心が嬉しくて、山田はそれをソ、と握りこんだ。
「ありがとう、じっちゃん。」
 嬉しくて、かすかに目元に涙をにじませると、じっちゃんは笑って山田の手を離し、その手で彼の肩を叩いた。
「太郎、遠慮しすぎて使わないというのもナシだぞ? いつも世話になってる連中への土産くらいは、忘れるなよ。」
 覗きこむように念を押されて──その口元に広がる穏かな笑みを見上げながら、山田は大きく頷いた。
「……うん、もちろん、じっちゃんとサチ子にも買ってくるよ。」
 手の中の、紙幣のぬくもりを感じながら、噛み締めるように呟く。
 この重みを、他の誰が知らなくても、自分だけは覚えておこう、そう思って。
 何も言わず、ただ頷いて微笑むじっちゃんに、山田も微笑み返した瞬間、
「あれっ!? お兄ちゃん、じっちゃんっ!? んもーっ、どこ行ったんだよっ!?」
 向こうから、サチ子の声が聞こえてきた。
 思わず二人は顔を見合わせ、じっちゃんが先に仕事場から居間へと上がっていく。
「すまんすまん、サチ子。もうご飯かい?」
「そうだよ、だからテーブル出してもらおうと思ったのに。
 で、お兄ちゃんは?」
 じっちゃんの高い背を見送り、山田は受け取ったばかりのお小遣いを、大切にズボンのポケットにしまった後、
「じっちゃん、おれがテーブルを出すよ。」
 じっちゃんの後を追って、居間に出て行った。










 バックの中に詰めるものを確認しながら一つ一つ入れていると、久し振りに息子が家に居ることが嬉しいらしい母が、柔らかに微笑みながら、とりとめのない話に相槌を打ってくれる。
 野球に生活のほとんどを打ち込む息子のワガママに、何も文句を言わず付き合ってくれる母には、いつも苦労をかけている──高校に入学するときよりも数段やつれた感のある母の横顔を見るたび、いつかやめなくてはいけないと、そう思う。
 そして、その覚悟があるからこそ、里中はいつも全力で、命を賭けて、試合に挑んでいけるのだ。
 いつ、野球をやめても、悔いが残らないように。
「母さん、てっきり、合宿所からそのまま向かっちゃうのかと思っていたわ。」
 里中が詰めていく荷物の点検を手伝いながら、加代は柔らかに微笑む。
 良く似ている母子だと言われるが、加代は里中よりももっと線が細く、病的なほど白かった。これで少しお洒落をして街中を歩けば、高校生になる息子が居るなど、誰も思わないだろう。
 身綺麗にして、息子のことばかり思っていなかったら、恋人の1人や2人は出来たはずだ──最も、そうなったらなったで、なんとも複雑な気持ちになるのは分かっていたけど。
「おれもそうかな、って思ったんだけどね。」
 小さく笑いながら、里中は今頃の合宿所を思った。
 二年生だけが合宿所から撤退して、一年生だけの空間。
 きっと彼等は、うるさい先輩が居なくなって、のびのびとくつろいでいるだろう──くつろぎすぎて、翌朝遅刻などしなかったらいいのだが。
「合宿所のほうが、ギリギリまで寝てられたんだけどなぁ。」
 クスクスと笑いながら、里中はそんなことを零す。
 そんな息子に、同じようにクスクスと加代は笑った。
「そんなこと言って、明日のことを考えて寝付けなくなっちゃって、みんなで談話室とか、食堂とかで、明け方まで話してるんじゃないかしら?」
「…………ありえそう。」
 ぷっ、と噴出して、里中も笑った。
 そうでなくても、今からワクワクしてしまっているのだ。
──楽しい修学旅行になるといいな。
 そう山田に言ったのは、本当につい最近のことだけど、今回の修学旅行は、楽しくなりそうな予感がしていた。
 憂鬱で、最後まで行きたくなかった中学のときとはまるで違う。
「たくさん写真を撮ってきてね、智。」
 中学の時の、あまり気が進まないような様子が見え隠れしていたときとは違って、本当に嬉しそうな里中の様子に、加代もニコニコと微笑みが零れるばかりだ。
「うん。」
 ニッコリ笑って頷く息子に、加代は少し無理をしてでも明訓に行かせたのは、正解だったと、胸の前で手を組み、しみじみと楽しそうに荷造りする里中を見つめた。
「母さんにも土産を買ってくるよ。何がいい?」
「智が元気で帰ってきてくれるのが一番のお土産よ。」
 打てば響くように、ニコニコと答える母に、里中は一瞬目を瞬いた。
 そして、少し眉を寄せて、
「母さんはいつもそればっかりだよ。何かないの?」
「じゃ、山田君と写真を撮ってきて。
 あと、岩鬼君と、殿馬君とも。」
「……………………そんなの、甲子園で撮ったのもあるじゃないか。」
 眉を落として、里中は二人で暮らしてきた小さな部屋を見回した。
 家具の少ない小さな部屋の中、一年の夏と秋、二年の春と夏と、優勝記念の写真が並べられている。殺風景な部屋の中にあって、優勝旗を囲んだその写真だけは、豪華に見えた。
「あら、息子が楽しそうに写ってる写真は、いくつあってもいいものよ。」
────特に、中学の3年間、見て分かる作り笑顔で写っている写真しかなかったことを思えば。
「……適当に見てくるよ。」
 はぁ、と溜息を零して、里中は荷物の中をもう一度見下ろして、バックのチャックを閉めた。
 きちんとチャックを閉めてしまえば、後はもう、明日になるのを待つだけのような気がして──宿泊をすることなど、初めてじゃないのに、なんだかワクワクと胸が高鳴ってきて……里中は、込み出る微笑みを抑えることが出来なかった。




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ちょっとマジメに、山田家と里中家の旅行前日。
ほのぼの風味。