春の選抜を目の前に控えた、冬のある日のことだった。
目覚めてみたら、頬に当たる空気がイヤに冷たい。
今日の冷え込みは一層辛いと、そのまま布団に潜り込んでしまいそうになるのを、イヤイヤながら首をもたげる。
隣の布団を見ると、スゥスゥと相変わらずの規則正しい寝息が聞こえた。
勢い良く布団から飛び出すと、ブルリと身を震わせるほどの冷気が一気に全身を襲ってくる。
慌てて枕元に置き去りにしてあったウィンドブレーカーに袖を通すと、これまた冷たくて、一気に目が覚めた。
窓からは、まだ朝日は差し込まず、シンシンとした寒さが部屋の中に落ちていた。
目覚ましはまだ音を鳴らしてはいないが、時刻はすでに6時前。
あと30分ほどの時間を惜しんで布団の中に戻れば、その温もりにあっと言う間に熟睡してしまうことは分かっていたので、寒さで目が覚めてしまった自分を呪うしかないだろう。
すばやくジャージに着替えながら、これだけ寒い思いをするなら、前の夜からアンダーシャツを着込んでおけばよかった、と、いつも思うことを今日も思う。
毎朝思うのだが、同時に、そりゃいくらなんでも怠惰すぎるだろうと、毎夜思い実行には至ってはいない。
「しかし寒いな……。」
ジャージのまま布団に潜り込みたくなるのを堪えて、微笑はウィンドブレーカーを羽織った。さらに机の上に置いたままだったマフラーも手にして、それをぐるりと巻いた。
室内でこういう格好をするのは少し躊躇いがあったが、寒さには変えられない。
少し早いけれど、食堂に行ってストーブでも点けているかと、彼は同室者をそのまま捨て置き──どうせ6時になれば、目覚まし時計が鳴って目を覚ますだろう──、廊下へと出た。
とたん、室内よりは数度低いかと思うほどの冷気に、うわ、と、小さく声が零れた。
板張りの廊下はひやりと冷たく、まるで結露が出来ているかのように感じた。
見上げた窓も白く曇っていて、薄暗がりの外はボンヤリと映し出されるばかり。
「オイオイ、寒すぎだろ……。」
げんなりと零して、微笑は窓へと歩み寄った。
そのまま曇った窓に手を滑らせると、氷水のような冷たい感触に、ため息が零れた。
そのため息も、白く濃く──長く尾を引いた。
濡れた窓の外──まだ朝日が昇っていないだろう、ぼんやりとした明るさの中、グラウンドが映った。
そのグラウンドが、うっすらと白くなっているのに気づき、この寒さの原因を知ったような気がした。
「って、まさか雪か〜?」
カレンダーはもう2月。
確かに「雪」が降っても、おかしくはない季節ではある。
一応暦の上では、2月が一番雪の季節だとされているくらいだ。
夜のうちに雪が降ったのだろうか? そう思えば、この寒さも理解できる。
ブルリ、と身を震わせた微笑は、とにかく食堂でストーブだと、身を翻そうとした瞬間、あれ、と、彼は進みかけていた足を止めた。
何か今、グラウンドで動いたような気がする。
「こんな朝早くに、誰だよ?」
答えを微笑は知っているような気がした。自分が手でぬぐった窓から、もう一度外を覗くと、マウンド上で、白い地面を足で蹴散らしている少年の姿が見えた。
グルグルとマフラーを巻き、ブルゾンと手袋を身につけた、防寒姿である。
毎日の日課である早朝ランニングに、これから出かけるところなのか、帰ってきたところなのか、見た限りでは分からなかった。
これからランニングに行くにしては重装備に見えるが、朝日が昇る前の──特に今日のような寒い日には、それくらいしないと体が冷えてしまうかもしれない。
「こんな寒い朝も、良くやるよ、智は。」
たいしたもんだと、コチラは寒さに首をすくめて、微笑は再び食堂めがけて歩き始めた。
とにかく、今の自分の最優先事項は、食堂でストーブを点けて温まること、だった。
そうやって食堂を温めていれば、冷え切った里中の体も、すぐに温まることだろう。
まだ、まかないのおばさんも来ていない食堂で、一台しかないストーブの前に座り込み、火種を点けてその前で赤い火を見つめることしばし──、ようやく頬に当たる熱が温もりを持ち始めたのに、ふぅ、と微笑は一息ついた。
シュルリとマフラーを解いて、それをテーブルの上に投げながら、椅子に座り込む。
座り込んだ椅子もテーブルも、ヒンヤリと冷え込んでいた。
それでも、ストーブのある方向から漂ってくる熱風は心地よくて、その冷えもそれほど気にはならない。
ふぅ、と吐息を零して、冷え切った手の平をストーブの方へ向けて擦り合わせていると──、
「あっ、微笑さん、おはようございます。今朝は早いですね。」
微笑と似たり寄ったりな格好をした後輩達が、食堂へと入ってくる。
いつもは眠そうな顔も、今日ばかりは寒さに目が冴えてしまっているらしく、あくびを噛み殺す姿も見えない。
長身を縮めて入ってきた面々は、微笑の前のストーブが点いているのに目を輝かせると、1も2もなくストーブの周りへと集まった。
けれど、まだ全然温まっていないストーブに、ガックリしたようにため息を零す。
そんな彼らに笑いながら、
「俺も今起きて来たところなんだよ。」
と、微笑は寒さから身を守るように身を縮込める。
「今日は本当に寒いっすね〜。」
暑さに強い渚は、逆に寒さに弱いらしく、彼は室内であるにも関わらず、グラウンドに居た少年と似たような格好をしている。
ふかふかのマフラーに首を埋めて、うう、寒い、とぼやく様は、どこか滑稽でおかしかった。そのうち、自宅から自室にストーブでも入れようとするかもしれない──というのは、同室の高代の言である。
「グラウンド見たら、真っ白なんだもんな。昨日、雪が降ったんですねぇ。」
渚ほどではないものの、コチラも室内にしては着膨れしている高代が、ストーブの前にしゃがみこみながら微笑の顔を見上げる。
「そーだなぁ。寒い寒いとは思ってたけど、降ってたんだな。」
言いながら、思い出すのは先程マウンドでその白い雪を蹴散らしていた少年の姿だった。
夏の太陽に弱い彼が、逆に冬の寒さに強いかというと、そういうわけではない。昨年も、真っ先に風邪を引いていたのは彼だったような覚えがあった。
ただ、山田兄妹の献身的な協力と、里中本人の基礎体力が十二分であったために、大事に至ることは一度もなかったが。
「こんな寒い中じゃ、汗も掻けないだろうと思うんだけどな……。」
こういう日くらいは、ランニングも日が昇った後にすればいいのに──そんな風に呟いた微笑に、あぁ、と後輩達から頷きが帰ってくる。
「山田さんと里中さんですよね? さっき、グラウンドに居るのを見ました。」
「こんな寒い中、よく自主トレなんてやる気になりますよねぇ〜。」
寒い寒い、と零しながら、彼らはストーブの前に手を翳す。
彼らの台詞に、やっぱりな、と微笑は頷いた。
──智が1人でグラウンドに居るはずはないと思ったんだ。
あの2人は、基本的にセットで行動する。
「え、自主トレ中だったのか、あれ?」
高代の頭の上からストーブに手を翳していた香車が、片目と唇を歪めて怪訝そうに尋ねる。
そんな彼の疑問に、なぜか後輩達は一瞬沈黙をした後、空々しいほどに空々しく、
「自主トレだろ。」
「自主トレだよな?」
「うん、そーだよ、きっと。」
棒読みかと思うほどの声で、無理矢理納得しようとしていた。
そんな同僚達の努力を、納得できない顔で、香車が顎に手を当てて首を傾げる。
「え、でも、グラウンドの真ん中で手を握り合ってただけじゃ……。」
不思議そうに言いかけた香車の言葉は、
「イメージトレーニングなんだよ、だから。」
「そうそう、山田さんと里中さんくらいになると、イメージトレーニングで試合が出来るんだよ。」
即座に上下と高代によって速断される。
なかなか優秀な後輩達である。
「……こんな寒い中で?」
酔狂だな、と零す香車の首に、即座に蛸田の長い手が回った。
「それだけ集中力があるんだよ、山田さんと里中さんはっ。」
これ以上は何も言うなとばかりに、ギリギリと香車を締め付ける蛸田を見ながら、ニヤニヤと微笑は笑いを張り付かせる。
「ランニングの帰りに、雪でも見てただけだろ。」
先輩の余裕で──正しくは、「アレに半年余分に付き合っている」実績で、微笑は頬杖をつきながらそう言ってやる。
おそらくソレは、里中が足で雪を蹴飛ばしていたところから判断しても間違ってはいないだろう。
アリアリと想像できる。
雪で小さな玉を作って投げた里中の手がかじかんで、それを山田が温めてやったか何かしたのだろう。
特別珍しい光景でもない。
下手をしたら、教室の中で堂々と見かけることが出来る光景である。
「そ、そーですよね……。」
狼狽したような、納得したような、してないような──いや、したくないような。
そんな複雑な表情で頷きあう後輩を、チラリ、と見やりながら、微笑は先輩口調で彼らに忠言してやった。
「お前らも、いい加減慣れろよ。」
「……慣れませんよー、ふつうは〜。」
今にも泣き付きそうな口調で、後輩達は頭痛を覚えたかのように、そう呻いた。
──と、
「ただいまー!」
一際リンと響く声が、入り口から聞こえた。
噂をすれば影が差す──間をおかず、食堂の入り口が開いて、頬を紅潮させた里中が飛び込んできた。
はぁ、と弾んだ息が白く、里中の頬の辺りを覆う。
「おっ、あったかいな、ココ。」
ニッコリと相貌を緩ませる里中の耳の辺りが、ヒリヒリと痛そうに真っ赤にはれている。
見ているこっちの方が寒くなりそうな姿だった。
ただでさえでも、ストーブを点けたばかりで、ストーブの周辺以外は暖かくないというのに──と、思わずブルリと体が震えた。
全身から冷気を立ち上らせているような里中の様子に、顔を歪めて渚が首をすくめる。
「外が寒すぎるんじゃないんですか? 里中さん、顔も耳も真っ赤ですよ。」
見ているだけで寒い、と、体を縮める渚に、
「渚が寒がりすぎるんだよ。」
呆れたように言いながら、里中はマフラーを解き、手袋を脱ぐ。
かじかんだ手は、指先の辺りが真っ赤に染まっていた。
その手を見て、軽く眉をひそめた里中は、感覚のない手を軽く振りながらストーブの傍へとやってくる。
体の芯から冷えているだろう先輩のために、ストーブの前にたかっていた後輩達が左右に割れて里中のために場所を開ける。
「智、朝のランニングもいいけど、ほどほどにしておけよ。
冷え切ってるんじゃないか?」
微笑が近づいて来た里中を見上げて眉を寄せてそう心配そうに言った瞬間、
「うん、ほら。」
ピタ。
里中が、冷えて感覚のない手を、前触れもナシに微笑の首筋に当てた。
「ひゃっ!!」
氷が当てられたかのような冷たさに、ぞくり、と背筋に鳥肌が立った。
おもわず毛を逆立てた微笑が、椅子を蹴落として立ち上がるのに、里中は自分の手を見下ろし、軽く首を傾げる。
「そこまで冷たいか?」
「冷たいよ! っていうかお前、手袋してたのに、なんでそんなに冷えてるんだっ!」
首筋に当てられた手のおかげで、ようやく温まってきた体が一気に冷え込んだと、ゾクゾクする体を抱きしめながら叫ぶ微笑に、ぅわー、と、渚がそろそろと体を後退させる。
その被害に会いたくない。
そんな表情をアリアリと浮かべる渚の隣から、
「里中さんは投手なんですから、そんなに体を冷やしちゃダメじゃないですか。」
「そうっすよ、里中さん。」
上下や高代が、口々に言い合って、さぁ、とストーブの前を手で示す。
特等席を目の前に開けられて、里中がきょとんと目を瞬いた。
「春季大会は、もう目の前なんですから、体調を崩したら大変ですよ!」
さらに蛸田まで真剣に言ってくる。
そんな彼らをぐるりと見回して、
「…………山田が増殖してる……。」
と、思わず里中は呟いた。
無意識にこぼれたらしい里中の台詞に、
「そりゃー、こんな寒い朝に、そんなに冷たくなるまで外に居たら、山田じゃなくても心配するって。
渚みたいにしろとは言わないけど、もう少し着込んだほうがいいんじゃないか?」
微笑が、クツクツと笑いをかみ殺しながら、クイ、と顎で、ストーブから──正しくは、未だ冷気を纏わせた里中から、少しでも遠ざかろうとしている渚を示す。
「渚?」
首をかしげた里中が視線をやった先には、室内に居るとは思えないほど着膨れした渚が居た。
先ほどまで外に居た里中よりも、重装備なのは間違いない。
里中はそれを認めた瞬間、あきれたように目を見開いた。
「お前、そんなに着込んでるほうが、風邪引くぞ?」
「いえっ、俺は、これでちょうどいいんです!」
即座に答えた渚に、へー、と、里中は聞いてない表情で一つ頷いた後、にっこり、と笑った。
その笑顔を見た瞬間、──来る、と、渚があわてて身を翻すが、いくらスタートダッシュがすばらしかろうと、着膨れした身で里中に適うはずもない。
「渚っ!」
里中は、背後から渚を締め上げるように引き止めると、そのまま彼の顎に手を当てて、グイ、と、自分の方に向けて引き倒した。
──瞬間、氷のような冷たい手が、渚の顎から頬に、ぺったり、と当たる。
「ぅぎゃぁぁあーっ!!」
「なんだよ、その悲鳴はっ!」
耳元で鳴り響く渚の悲鳴に、ムッとしたように顔をしかめる里中の腕の中で、ジタバタと渚が暴れる。
「冷たいっ、里中さん、マジ冷たいっすーっ!」
「こんなに着膨れてて、なんで分かるんだよ。
俺が冷たいと思うなら、お前、それ一枚くらいよこせっ。」
「いやっ、手っ、手が俺の顔ーっ!!」
悪ノリした里中が、自分の手が冷たいのを承知で──いや、だからこそ強引に、渚の首からマフラーを抜き取り、後ろ首に手を当てる。
それに悶絶する渚に、さらに嬉々として、着膨れした後輩の身ぐるみを剥ごうとした……とたん。
「里中……何をやってるんだ。」
あきれたような声が、出入り口から聞こえてきた。
「あれ、山田。」
振り返った里中の手が緩んだ隙に、渚はあわてて里中の腕の中から逃げる。
そのままぐるりと回って、ストーブの向こう側に回ると、里中の手に握られたままのマフラーを、恨みがましそうに見つめた。
「あれ、じゃないだろ。外から帰ってきたら、うがいが先だ。」
まったく、と開いたままの扉の向こうで、すでに上着を脱いだ山田は、一足先に部屋で上着を脱いでうがいも手洗いも済ませてきたのだろう。
いつまで経ってもこない里中を探しに来たらしいと判断して──つくづく山田も、過保護だよなぁ、と、微笑は軽く肩をすくめる。
その山田の「あんたは里中のお母さんですか」と思うような台詞に、里中はあっさりと手にしていた渚のマフラーを高代に渡すと、
「悪い悪い。渚が着膨れしてるから、剥いで見たくなってさ。」
さっさと冷気吹き込む出入り口めがけて歩き出す。
「って、里中さん、ひどいですよ〜!」
渚の叫びにしかし、「いや、やっぱりそれは着すぎだろう」、と、弁護する者は一人もいなかった。
山田も、テーブルの上に置き捨てられていた里中のマフラーと手袋を手に取り、ちらりと渚を見やると、
「渚、いくら体を冷やさないためだとは言っても、着膨れしすぎても、風邪を引くぞ。ほどほどにしておけ。」
そう親切に助言してくれる。
「いや、それは分かってるんですけど、でもやっぱり、寒いんですよ……。」
高代の手からマフラーを奪い取り、渚はそれをグルグルと首に巻いた。
食堂の入り口まで来て、ヒュゥ、と廊下から吹き込む風に、小さく首をすくめた里中は、そんな渚を振り返り、笑った。
「グラウンドに出て走っていれば、そんな服はいらなくなるさ。」
そのまま山田に促されて、里中と山田は、連れ立って廊下に出て行った。
ドアが閉まり、廊下から吹き込む冷気が消え去る。
それに、ほぅ、と息を吐いた後、渚は再びストーブの前を陣取って、
「出来れば、今日はグラウンドに出たくないなぁ……。」
雪で真っ白になっていたグラウンドを思い出し、渚はぜんぜん温まらない室内にため息を一つ……こぼすのだった。
風がない分だけ、身を切るような寒さはなかったが、それでも水場のあたりは冷え込んでいた。
蛇口をひねろうとして、かじかんだままの指先が言うことを利かないのに眉を寄せて、里中はブンブンと手を振る。
そんな彼に、山田は苦笑を噛み殺しながら、隣から蛇口をひねってやった。
「サンキュ、山田。」
そのまま水の中に手を突っ込み、里中は赤くはれぼったくなったような手のひらで水を掬い、唇を近づける。
ひんやりとした水は、確かに冷たかったが、それでも外の寒さに比べたらずいぶんマシに感じる。
渚などは、水に触れたくもないと言うだろうが。
しびれてなかなか言うことを聞かない手の平に乗った水に顔を近づけてうがいを終えると、手のひら全体から感覚がなくなっていた。
里中は再び蛇口を見下ろしてから、山田を見上げた。
手が先程以上にしびれて、言うことを効かない。
そう里中が訴えることもなく、隣にスタンバイしていた山田は、無言で蛇口を閉めてくれた。
更に、手を鈍く振っている里中を見下ろして、ポケットからハンカチを取り出すと、それで里中の手を丁寧に拭いてやる。
可哀想なくらい真っ赤にはれたように見える里中の手は、ハンカチで水を拭き終えた後も、まだ赤く、小さく震えていた。
震える里中の手は、氷のように冷たくて、山田はそのまま自分の手で彼の手を包み込んだ。
軽く眉を寄せる山田に対して、その冷えた指先を振っていた張本人はというと、驚いたように目を見開く。
「山田の手、すっごくアツイなっ。」
「おれの手が熱いんじゃなくて、里中の手が冷たすぎるんだよ。」
呆れたようにそんな里中を見下ろすと、彼は小さく首を傾げる。
「そうか? 水を使った後だから余計にそう思うんじゃないか?」
冷たくなりすぎて、すでに感覚がないようである。
「すぐに冷えるな、お前の手は。」
包み込んでいる山田の手から、暖かなぬくもりが奪われていく。
それとともに、ようやく指先に感覚が戻ってくるのを感じながら、ほぅ、と里中は吐息をこぼす。
今度は、ジンジンと痛いくらいに指先が熱くほてり始めていた──でも、いやな感覚じゃない。
「手袋をしてても、かじかむんだよな。」
「手袋を一枚増やすか。」
どこからか吹き込んでくる隙間風に、ブルリと身を震わせる里中をさりげなく庇いながら、山田はまだ痛々しいほどに赤い里中の指先を見下ろした。
「いっそ、手にホッカイロを握り締めて、ランニングするって言うのはどうだ?」
里中も同じように自分の指先を見下ろす。
山田の手に握りこまれた自分の手は、彼の体温を吸い込んで、感覚をゆっくりと取り戻していく。
何も感じ取れなかった手が、今は山田の手の平の触感を感じ取れた。
「やけどするぞ。それに、イザという時に両手が使えないと危ないしな。」
「そりゃそっか。」
小さく笑って、里中は山田を見上げた。
「まぁ、いいよ。山田の手が暖かいからさ。」
「まさか、手を握りながら走るつもりか、里中?」
昔、そういうゲームがあったような気がするが──とてもではないが、ランニング向きじゃない。
鼻の頭に皺を寄せて困惑の色をみせる山田に、明るく里中は笑った。
「あははは、それもいいな。」
「里中……。」
困ったように名を呼ぶ山田に、冗談だよ、と続けた。
それから、自分の手を握り締めている山田の手を見下ろして、いたずらげに小さく笑った。
「里中?」
首をかしげて小さく問いかける山田の声を頭の上に受けて、ゆっくりと里中は首を傾け──自分の手のひらを包む、山田の節ばった大きな手に、そ、と唇を触れさせた。
「──……さっ。」
「これからも、頼むぜ、山田。」
驚いたように目を見開く山田に、目を緩めて微笑んで見せる。
見上げた先で山田は、目元を真っ赤に染めて、唇をゆがめていた。
何を言っていいのか、分からないようなそんな顔に、うん、と里中も照れたように笑った。
里中の吐息の感触が、まだ指先に残っているような気がして、指がムズ痒く震えた。
それを見下ろして、山田はなんとも言えないような顔をした後、
「それは──俺の台詞だ、里中。」
握り締めた手をかすかに開き、血の気を取り戻した里中の指先に、お返しのように口付けを落とす。
ぴくん、と里中の指がかすかに震えた。
一瞬で熱を取り戻したように熱くなる指先に、里中は、キュ、と唇を一文字に結ぶ。
ゆっくりと顔を上げる山田の顔を、拗ねたような表情で、里中は睨みあげた。
「────…………なんか、山田のほうがずるい。」
「そうか?」
「そうだよ。」
小さく頬を膨らませて山田の問いかけに即答して頷いた里中に、そうかなぁ、と再び首を傾げる。
そのまま少し考えるけど、里中がしたように指先に口付けただけで、特に何か「ずるい」と責められる謂れは思いつかなかった。
益々困ったような顔になる山田を、里中は目元を赤らめたまま、唇を尖らせる。
山田の前くらいでしか見せない、幼いばかりの表情に、困り果てて山田は彼に尋ねる。
「……何がずるいんだ、里中?」
「理由がないのに、キスするのはずるいだろ。」
──……可愛いことを言うなぁ、なんて言えば、絶対彼は怒るだろう。
なんとも答えがたい表情で、山田が苦笑を浮かべる。
けれど、その苦い色の中に、甘い色がにじみ出ているのを認めて、里中は憮然とした表情を、一転してホロリと笑み崩した。
「なーんてな。」
照れを押し隠すように、せわしなく二度三度瞬きをした後、そ、と踵を上げて、
「──理由なんて、なくてもいいけどな。」
そう小さく囁いて──チュ、と、触れあうだけのキスをした。
「さ……里中……っ。」
狼狽する山田を覗き込みながら、な? と、里中が首をかしげて笑った。
そのまま彼は、自分の手を包み込んでいる山田の手を、己の頬に当てて──暖かな手の平に頬ずりをすると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「やっぱり、山田が一番あったかい。」
ずらずらと、いつものように食堂にやってきた殿馬は、上着のポケットに手を突っ込んだまま、ストーブ近くに陣取る面々の顔を見やった後、
「おめぇらよぉ、顔を洗いに行くなら、もう少し後にしとくづらぜ。」
ドッカリと椅子に腰掛け、突然そう言い出す。
そんな殿馬の台詞に、微笑は何が起きているのか理解した。
しかし、理解しない面子も居るわけで。
「──へ、どうしてですか?」
不思議そうに高代が殿馬をパチパチと見やった。
そんな彼に、気だるそうに視線をやった後、殿馬は頬杖をついて、
「冬なのに、あっついづらなー。」
そう答えた。
つまり、手洗い場は、ただいま危険地区に指定されているということだろう。
「廊下は寒いから、そのうち山田が智を連れてくるだろ。」
おばさんが入れてくれたばかりの熱いお茶を飲みながら、ふう、と満足そうに微笑が吐息づく。
そんな、物慣れた調子の先輩たちを見ながら、後輩たちは。
「……………………いつか、俺たちもなれちゃうのかなぁ…………。」
なんだか、そう遠くない日に、先輩たちの仲間入りを果たしてそうな自分が──想像できた。
+++ BACK +++
書いてて砂糖を吐いて死ぬかと思いまシた……(なら書かなかったらいいのですが)。
ナニなら、最後から二つ目のシーンは、永遠に削除してしまっても結構デス。
でも、バカップルを書いてみたかったという、暴挙をしてみたかったんです……見事に大敗しました。
目の前にこんなバカップルが居たら、カバンくらい投げてるかもしれません。
多分、二人の世界に入ったあそこへ入るのは、岩鬼くらいじゃないかなー、とか。
殿馬は、面倒だからあえて無視。
微笑も、とりあえず見て見ぬフリ。
後輩たちは、口も出せずにひたすらダメージを受ける──そんな感じでしょう(笑)。
と、言うのを想像してみてください。
時期的に2月、里中の誕生日前くらいで。