同棲生活 2








 室内の布団の上にも霜が降りてきているのではないかと思うくらいに冷え込む朝──いつもは騒々しい合宿所も、この時ばかりはシンと静まり返っていた。
 キンと冷えた空気が舞い落ちる中。


ガンッ! ガンガンガンガンッ!!


 静寂を打ち壊す、轟音が鳴り響いた。
「なんだっ!?」
 慌てて起き上がったのは、浅い眠りをむさぼっていた高代である。
 仰天して目を見開き、周りを見回す。
 しかし視界に警鐘の元が映るわけでもなければ、警鐘の原因が映るわけでもなかった。
 視界に見えるのは、小さな合宿所の自室と、寝汚く頭から布団を引っかぶった同室者の布団だけだ。
「か、火事っ!? 地震っ!?」
 そう叫んでいる間にも、警鐘は鳴り止まない。
 慌てて高代は布団から抜け出し、ヒヤリと肌を舐める冷気に身を竦ませた。

ガンガンガンガンッ!

 追い立てるような警鐘は、どんどん近づいてきている。
 高代はそれに追い立てられるように枕を引っつかみ、そのまま部屋の外へ飛び出そうとして──慌ててユーターンして、隣の布団の山に戻った。
「渚っ! 起きろよ、渚っ!!」
 同室の少年は、この何かを駆り立てるようにかき鳴らす音がうるさいのか、布団の中にもぐったまま、身じろぎ一つしない。
 高代はそんな渚の布団の端を必死で掴み、
「起きろよ、渚っ! 大変だっ!」
「んー……うるさい…………。」
 かろうじて聞き取れる程度の小さな声が、くぐもって布団の中から答える。
「火事かもしれないだろーっ!!」
 布団を剥がそうとする高代の手に抵抗するように、ギュ、と力を込めてかけ布団を握り締める渚に、高代が悲鳴のように声をあげた瞬間、

ガンッ!

「ぅわっ!」
 ドアが、激しい音を立てた。
 思わずビクンと肩を跳ねさせて飛び上がった高代の手の下で、寝ぼけ眼の渚も顔を覗かせる。
 それをドアの向こうの人は見透かしたように、
「とっとと起きろ、渚、高代っ! 飯だぞっ!!」
 リン、とした声で、そう叫んだ。
 そして、再び何事もなかったかのように、ガンガンガン、と耳障りな音が始まった。
 呆然と目を瞬かせ、ドアへと視線を注いだ高代と渚は、そのまま何ともいえない表情でお互いの顔を見やった。
 そして、もう一度ドアへと視線をやる頃には、
「なんだよ、一体っ!?」
 先輩の誰かの悲鳴めいた声が警鐘の先から聞こえ、
「朝飯だよ! さっさと顔洗って食堂まで来い!」
 それに答える人の声も──聞こえた。
 それは、先ほど渚と高代の部屋のドアを蹴り倒した人と同一人物の声であることは間違いない。
 つまり──、
「さ……里中…………さん?」
 この合宿所の中で、早起きの代名詞と言えば、里中と山田である。
 二人は良く一緒に、早朝から外に出てランニングをしているのだ。
 だから、高代たちの目覚ましよりも早く、彼が起きていることに疑問は抱かない。
 そのことには疑問はないのだが──なぜ、自分達を起こすのだろう?
「山田さんとケンカして、虫の居所でも悪いのかな?」
 首を傾げながら──しかし口にしたと同時に、それはありえない、と高代も渚も思った。
 顔に似合わぬ直情型の里中は、基本的に怒ったらその場で怒鳴る、殴る、蹴る。
 喜怒哀楽が人一倍激しい彼は、結構そこらでケンカを売り買いしている。
 山田が居るときは、彼が抑え役になっているので、渚たちはその現場を目撃したことがなかったが──つい先日、ちょうど山田が所用で席を外している間に、白新の不知火とケンカが勃発しそうになったのは、渚たちの記憶にも新しい。
 渚も人一倍ケンカっ速いほうだという自覚はあったが、それでも里中ほどではない。しかも里中は、渚や高代たちと違って、あの小柄な体で結構強いらしい。
 渚たちが最近になるまで里中が「そう」であることを知らなかったのは、山田が彼のケンカ早い気持ちを上手い具合に抑えていたからだ。
 山田はそれくらい里中の気持ちの機微に聡かったし、里中も山田に言われたらしぶしぶとは言え、素直に引くところがあった。
 彼らは私生活においても、「黄金バッテリー」なのである。
 その二人が、ケンカ?
「里中さんが一方的に怒ってるだけなんじゃないのか?」
 とは言っても、その場合も里中はあんな風に物に当たることはない。──いやそもそも、山田が里中を怒らせるということ事態、想像もつかなかった。
 なら、何かほかに朝っぱらから機嫌の悪くなる要因があったと言うことだろうか?
 ──考えもつかない。
 ふぁ、と大きめのあくびを零して、のそのそと渚は布団の中から這い出る。
 その瞬間、布団の中とは雲泥の差の気温に、ブルリ、と細い体が震えた。
「ウゥ……寒い。」
 里中のドア向こうからの強襲のおかげで吹っ飛びかけていた眠気が、完全に無くなった瞬間であった。
「でも、早く起きないと、里中さんが怒るぜ。」
 高代は、寒さに首を竦めながら、暖かい毛布をせっせと仕舞いこみ、そのままガバッ、とパジャマを脱いだ。
 寒さに肌を粟立たせながら、高代は寒さに身を震わせながら、シャツに手をかける。
 その隣で、名残惜しそうに布団を見つめていた渚も、里中の気性の荒さは知っていたので、ノロノロとではあったが、着替え始めた。
「うぅ……里中さん、何で怒ってるんだろう?」
 せめてそれだけでも分かれば、心の準備が出来るのに。
 そう零す渚に、高代は考えるだけ無駄だと、着替え終わった姿に上着を羽織って、渚を催促する。
「渚、急げよ。」
 ようやく寝巻きを脱いだばかりの渚をせかして、高代はさっさと彼の分の布団も片付けはじめる。本当なら、渚が片付けるまで放っておくのだが、先ほどの里中の剣幕を思い出せば、そうも言ってられなかった。
 部屋の隅に布団を重ねて、目覚し時計のスイッチをオフにした頃、ようやく渚は準備を終えた。
「さ、急ごうっ!」
 慌てる高代に、大きく頷いて、渚も慌てて部屋から飛び出した。
 廊下はすでに静かになっていて、食堂の方からかすかな賑わいの声が聞こえてきていた。
 同時に、朝食の良い香がふんわりと漂ってくる。
 二人は誰も居ない廊下を慌てて走り、暖房の熱気が零れてくる食堂のドアを開いた。
 瞬間、
「遅いっ! 高代、渚っ! お前らが一番最後だぞっ!!」
 ビシッ! と、空気が震えたかのような衝撃を感じた。
 暖かな空気が顔に触れてホッとするよりも先に、ビシリっ、と背筋が正された。
「す、すみませんっ!」
 声をそろえて叫んだ二人に、食堂内から笑みが零れた。
 ソロリと視線を向けると、すでに食堂内には合宿所の全員が揃っていた。
 入るなり里中が叫んだとおり、自分たちが最後の二人だったようである。
 渚と高代は、ソロリ、と視線を上げて里中の声が飛んできた方向を見やった。
 テーブルに着いた面々の先……食事の窓口のあるあたり。
「…………さ…………となかさんっ!!?」
 足を開いて腕を組み、どっしりと仁王たちする明訓高校の正投手に、あんぐりと口を開いて渚と高代は、マジマジと目を見開いた。
「さっさと座れ。最初の分は盛ってやるが、おかわりはセルフサービスだからな。」
 胸を張って偉そうにのたまう里中の右手には、しゃもじが握られていた。その片割らには、大きめのジャーが二つ。
「そ……いえば、今朝の食事は里中さんと山田さんが作ったんでしたっけ……。」
 グルリと見渡した部員の前には、いつもの賄いのおばさんが作ってくれたものと見劣りしない食事が並んでいる。
 そして視線を再び里中へと戻し……渚も高代も、なんとも言えない顔でお互いの顔を見交わす。
 なぜか、直視するのにためらいがあった。
 そんな二人の後輩に、微笑がいつもの笑顔に苦い色を馳せて同情の眼差しを寄せてくれた。
「まぁ、適当に座って、里中にご飯を盛ってもらえ。」
「はよせんかい、ナギーっ! 高代っ!」
 さっさと食べ始めていた岩鬼にまで叫ばれ、はいはい、と二人は里中の下へと歩いた。
 里中は、カツカツとしゃもじでジャーを叩くと、ほら、と手の平を差し出してくる。
 拾った茶碗を手にして、そろり、と渚は里中に向かって茶碗を差し出した。
 その際、おずおずと上目遣いに見上げた先で──里中が、ジャーを開けて中の飯を攪拌していた。
 それ自体は、別におかしいことではないのだが。
「…………あの……里中さん…………。」
 言わなかったらいいのに、つい渚は、口を滑らせてしまった。
「なんだ?」
 先ほど叫んだ剣幕はどこにもない表情で、里中は丁寧に盛り付けた渚の分の茶碗を彼に返しながら、小首を傾げる。
 その仕草がまた似合っていて、う、と渚は言葉に詰まった。
「ほら、後は山田からおかずを貰え。」
 言葉の先を言わない渚を気にせず、里中はクイ、と背後を顎でしゃくって、そのまま高代に向けて手を差し伸べた。
 思わず高代は、伸びてきた手の上に自分の分の茶碗を置いて……マジマジと、里中を見つめた。
 暖房が良く効いた食堂内のおかげか、ほんのりと朱色が走った白い頬が愛らしい。
「渚、高代、お前らが最後だからな。」
 いつも賄いのおばさんが顔を覗かせる窓から、大きな顔を覗かせるのは山田であった。
 彼が差し出すお盆の上には、部員たちの前に並べられているのと同じおかずが乗っていた。
 その上に渚は里中に盛ってもらったご飯を乗せ、お盆を手にして──窓ごしに山田を見て、ますます不思議そうに目をゆがめた。
 そして、コッソリと山田に顔を近づけ、高代に飯を盛っている里中を視線で示しながら、尋ねた。
「山田さん──なんで里中さん、あんなエプロンをつけてるんですか?」
 瞬間、

カッコーンッ!!

 さすがのコントロールで、渚の頭にしゃもじが当たった。
「いたっ!」
 思わず肩を竦めた渚に、
「悪かったな、こんなエプロンでっ!」
 しゃもじを投げた張本人が、ギリリ、と眦を吊り上げる。
 怒りにか朱色に染まった頬が、ハイネックの白いセーターに映えて綺麗だった。
「しょうがないだろっ、山田が入らなかったんだからっ!」
 腰に手を当てて上目遣いに睨み上げる里中の台詞に、同じ食堂内に居た誰もが、うっ、と言葉に詰まった。
 それと同時、食堂と厨房を繋ぐドアから、山田がノンビリと姿をあらわす。
 両手に自分と里中の分の盆を手にした彼は、おばさんがいつも見につけている白いエプロンをつけたままであった。
「すまない、里中。」
「まったくだ。」
 なぜか謝る山田に、里中が頷いて同意を示す。
 そんな彼らに、色々突っ込みたいことがあったが、結局誰も二人に突っ込むことはできなかった。
 二人分をテーブルの上に置いた山田のエプロンの紐は、大きな腰周りのギリギリの地点で無理矢理結ばれていた。
 渚と高代は、そんな山田のエプロンを見つめ──それから、里中に視線を移した。
 白いセーターの上から、真っ白のエプロンを身に付けた里中は、腰に手を当てて、渚の頭に当たって弾けたしゃもじを拾っていた。
 その細い腰にぴったりと合ったエプロンの紐を見る限り、確かに山田には里中が身に付けているエプロンを付けるのは無理だろうといえた。
 というかそれ以前に──里中、お前、そのエプロンを山田が着れたら、山田に着せるつもりだったのか? ……誰もが心の中で突っ込んで見たい台詞であったが、しゃもじで肩をポンポンと叩いている里中を前にして、それを口にすることは出来なかった。
 さすがに山田にフリルのエプロンは、どーかと思うのだが。 
「だから俺は、エプロンつけないって言ったのに……。」
 床に落ちたしゃもじを窓から厨房へと放りながら、里中はもう一つのジャーに設置されていたしゃもじを手にする。
「そう言うわけには行かないだろ?」
 山田が差し出してくる茶碗に、しゃもじで飯を盛り付けながら、里中は小さく溜息を零した。
 そんな里中の手から白い飯の盛られた茶碗を受け取りながら、山田が朗らかに笑う。
「いいじゃないか、おれがつけるより、里中がつけたほうが似合ってるし。」
──はっ! と、食堂内の空気が一瞬凍りついた。
 誰もが思っていても口に出せなかったことを、どうして山田さんはそんなに軽く言っちゃうんだと、渚と高代も、ヒクリと引き攣りながら思った。
 しかし、そんな一年生の心の声が届いたのかどうか、ようやく飯盛り係りから解放された里中は、早速フリルのついたエプロンを外しながら、眉を寄せるだけですませた。
「嬉しくないぞ、山田。」
 山田も手をまわして自分のエプロンを外しながら、明るく笑う。
「実際、おれがつけるよりもマシだろ?」
 クルクルと丸めたエプロンを台の上に置いて、里中は眉間に皺を寄せ──山田の席の正面に腰を落とした。
「──……うーん……どっちもどっちだと思うけどなぁ。」
 首を傾げて、納得しない様子の里中に、山田はただニコニコ笑うだけで答えなかった。
 しかし、周囲の誰もが、心の中だけで里中の質問に答えてやっていた──心の中じゃないと、里中を激昂させることが分かりきっていたから。
──まるでどこかの新妻さんかと思うくらい、似合ってたって……里中。
 まだ納得しない様子の里中を促し、山田が両手の平を合わせて、
「いただきます。」
 小さく頭を下げた。
 そうなれば、山田の対面に座っていた里中も、つられるように手の平を合わせて、同じように挨拶した。
 そして、二人揃って箸を取り上げ、朝食に取り掛かる。
 卵焼きとサバの大根煮込み、キャベツとにんじんの浅漬けと、豆腐とワカメの味噌汁である。
 サックリと箸を入れると、卵焼きからだし汁がジットリと滲み出てきた。
「山田、出汁は薄くないか? 大丈夫?」
 早速卵焼きを口に含んだ山田を、心配そうな表情で里中が上目遣いに見上げる。
 そんな彼へ、山田はニッコリと笑って頷く。
「いや、美味いよ。ちょうどいい味加減だ。」
「そっか、それは良かった。」
 安心したように微笑み、里中も卵焼きに手をつける。
 決してサバには箸を伸ばさず、ご飯と卵焼き、浅漬けの間で箸が動いた。
 そんな彼へ、
「里中、サバも少しは食べろよ。」
 上出来の味加減だと、サバの身を解して口に入れた山田が突っ込むが、
「…………………………。」
 里中はチラリと視線を逸らすだけで、それに頷くことはなかった。
 代わりに、
「今日の夕飯は、肉にしよう。」
 キリリ、と真剣な眼差しで、そう山田に提案してみせた。
「………………里中………………。」
「豚肉のしょうが焼きと、昨日煮込んでおいたジャガイモがあるから、ポテトサラダもできるな? あと……。」
 味噌汁を飲みつつ、今日の夕飯の献立を考える里中へ、
「沢庵と、いわしのつみれ汁。」
 しれっとして、追加メニューを山田が口にする。
 そのまま、ずず、と味噌汁を飲む山田に、ジットリ、と里中は睨みを聞かせた視線を飛ばした。
「…………………………山田……………………。」
「先生にも言われただろ? ちゃんと魚を食べろって。」
「それなら、せめて青魚じゃなくって、もう少し……こう、生臭くないのにしてくれ。」
 テーブルを挟んで、そんなメニューの会話をする山田と里中の二人は、いつもとは違って、なんだかずいぶん……。
「………………………………さっすが、ふーふ、だなー。」
 ふと誰かが、ポツリ、と呟いた言葉に、頷くことも笑うことも……誰も、できなかった。
 ちょっと、いつも以上に、しゃれにならないような気がしたため。

 せめて、「母娘みたいだな」と言ってくれたら、笑い飛ばせたかもしれない。

「まぁ、でも、それはさておき、美味いよな、これ。」
 とりあえず、コホン、と咳払いを一つ零して、微笑が強引に話をずらしてみた。
 そう言いながら突付いてみた魚に、うん、と誰にともなく頷きが返った。
「夕飯も楽しみづら。」
 さっさと食べ終えた殿馬が、ノンビリと食後の茶を啜る。
 この殿馬の台詞にも、また同じように頷きが返った。
「あー、まずかった!」
 そして、そんな彼らの台詞を無にするように叫んだのは、やっぱり岩鬼だった。
 言いながら茶を啜る岩鬼の目の前の食器は、すでに空である。米粒一つ残ってはいなかった。
「はいはい、おそまつさま。」
 岩鬼を相手するつもりのない里中は、賄いのおばさんがしていたように、愛想程度の台詞で岩鬼に答えてやった。
 そうして──再び目の前の指一本手をつけていないサバを睨みつけ……、
「……………………。」
 山田が作ったんだから、少しは手をつけないと、ダメだよなぁ?
 チラリ、と視線を上げ、綺麗に食べ終えた山田の食器を見たあと──はぁ、と里中は溜息を零して、渋々サバへと手を伸ばすのであった。






+++ BACK +++



メニューに関しては突っ込み不可。

なんか仲良く一緒にご飯を作っているやまさとを想像したら、とても楽しくなりました♪
ウキウキですね。