同棲生活







 夜も更けようと言う頃──コンコン、とドアをノックする音がした。
 布団の上に横になって野球雑誌を捲っていた里中は、その音にゆるく首を傾けるようにしてドアの方を見やる。
「山田、智、起きてるか?」
 向こうから聞こえてきた声は、微笑のものだった。
「起きてるよ。」
 机に腰掛けて読書をしていた山田が、本を閉じながら微笑の声に答えた。
 一瞬置いて、ガチャリとドアが鳴った。
「悪いな、夜遅くに。」
 いつも微笑みを絶やさない男の顔が、ひょっこりと現れて、里中は布団の上に横になったまま、顔を上げた。
「どうしたんだ、三太郎?」
 軽く首を傾げた里中に、微笑はすまなそうな笑みを口元に浮かべて──瞬間、表情を凍らせた。
 マジマジと、布団の上で横になった里中を見つめる。
「? 三太郎?」
 自分を見下ろしている──にしては視線が少しずれているような気のする微笑に、里中は小首を傾げて見せた。
 山田も同じように首を傾げて微笑を見上げた。
「三太郎?」
 不思議そうな二人の声にぶつかって、ハッ、と微笑がわれに返った。
「…………あ、いや、悪い……っ。」
 言いながらも、なぜか動揺の色を隠せず、微笑はチラチラと布団の上に横になっている里中を見る。
 里中はそんな彼の視線を受けて、ますます不思議そうな顔で首を傾げ、布団の上に起き上がった。
「三太郎、どうしたんだよ?」
「何か用があったんじゃなかったのか?」
 布団の上に身を起こした里中と、机の側にしゃがみこんだまま振り返る山田とに、微笑は何か言いたげにもう一度布団の方へと視線を走らせたが、結局開いた唇から言葉を零すことなく、こほん、と一度咳払いしただけだった。
「──……そう、そうなんだ。用があるから来たんだよ。」
「だったら、早く言えば?」
 そっけなく冷たい言葉を吐いて、里中はいぶかしげに微笑を睨みつける。
 パタン、と雑誌を閉じる里中に、いつもと違う何かを感じたような気がするのは、微笑の一方的な気のせいだと……思うのだけど。
「あ、あー……明日の朝なんだけど、まかないのおばちゃんが、来れないっていう電話が、入ったらしいんだ。」
 コリコリ、と頬を掻きながら告げた微笑に、ビックリしたように里中と山田が目を見開いた。
「えっ、おばちゃんがっ!?」
「何かあったのか? おばさんに?」
 心配そうに尋ねる山田に、あぁ、と微笑は顔つきを改めて頷く──そうしていても、元々の微笑の地顔は、治らなかったが。
「息子さんが、事故にあったらしくて──軽症らしいんだけど、様子見のために、1日休ませてください、だってさ。」
 渋い色を見せる微笑の顔に、山田と里中は顔を見合わせる。
「息子さんが?」
 そういえば、おばさんにも息子がいると言う話を聞いたことはあった。
 その息子も、明訓高校野球部のファンなのだと、そう笑っていた。
 息子のことが可愛くてしょうがない──誇らしくてしょうがない、そんな顔をして語ってくれたこともある。
「いくら軽症でも大変だな……1日だけといわず、しばらく休んでもらった方がいいんじゃないかな?」
 山田も厳しい顔つきで微笑を見上げ、顎に手を当てて呟く。
「しばらくなら、俺たちだけでもなんとかなるし。」
 おばさんのような栄養配分まで考えた食事は作れないけど、いくら男所帯でも、なんとかなるだろう? と山田が里中を見ると、
「いざとなれば、各自、自宅に帰ればいいんだしな。」
 ニッコリと里中が、そんな山田に微笑み返した。
 そのまま顔を見合わせて微笑みあうバッテリーに、微笑は苦い笑みを刻み込んだ。
「まぁ、それはおばさんが1日で良いと言ってるからさ、そこはおばさんに甘えたらいいと思う……けど、問題は明日の朝と夜の分の食事で……な。」
 そこで一度微笑は言葉を区切って、ん、と喉を鳴らせた。
 もったいぶる微笑に、二人は不審そうに眉を寄せる。
 二人を交互に見下ろして、微笑は溜息を零し、疲れたように呟いた。
「…………その食事をどうするか、なんだが……。」
 ボッソリ、と落とした微笑の言葉に、山田も里中も、意味がわからないと言うように眉を寄せた。
「どうするって……だから、おばさんがいないから、みんなで作るんだろ?」
「もしかして材料がないのか?」
 二人揃って根本的なことを理解してないようだ。
 微笑は額にパッチンと手の平を当てて、いや、だからな──と、ゆるく首を振った。
 ヒラヒラと手を振ってやりながら、
「それ以前の問題。
 料理が出来るやつが、一人もいないんだってば。」
「…………ハ?」
 キッパリと、現実を突きつけてやったところ、山田も里中も何を言われたのか分からない──と言った風の顔であった。
「出来るやつがいないって……三太郎、おまえもか?」
 渋面になった山田に対し、
「いくらなんでも、目玉焼きとか卵焼きくらいなら作れるだろう?」
 あからさまに信じれらないと言った顔になる里中。
 そんなパッチリとした里中の瞳を受けて、微笑は思い切り視線を横にずらして見せた。
 少し頬のあたりに朱色が走っているのは、それすらも出来ない自分を恥だと思っているからだろうか?
「…………作れるなら、夜中に相談に来ないよ。
 それで、朝からパンか何かを買ったほうがいいだろうと言うことになってな。」
 ──各自、自分で準備することになった、と、微笑が続けようとした瞬間だった。
「なんだ、じゃ、材料はあるのか。」
 アッサリと、里中が微笑の話を打ち切った。
 そして彼は、そのままなんでもないことのように山田を見やると、
「山田、何があるのか見に行こう。」
「そうだな、下ごしらえもしておいたほうがいいだろう。」
 二人は、示し合わせたようにヒョイと立ち上がった。
 何事かと目を丸くする微笑の前で、山田は上着を手にしてそれを里中に放り渡し、自らも上着を羽織る。
「料理を作ることが出来なくても、洗い物くらいは出来るだろう? お前ら、片付け役な。」
 里中は、上着に腕を通しながら、なんでもないことのように微笑にそう宣言したみせた。
 そんな二人に、キョトン、と微笑は目を瞬き──まさか、と黄金バッテリーを見比べた。
「二人が……作るってのかい?」
 立ち上がって部屋を出る用意を済ませた里中と山田は、当たり前じゃないか、と微笑を見返した。
「作れるやつが居ないなら、しょうがないだろ。」
「微笑、朝食も夕食も俺と里中が作るから、片付け係りだけ決めるようにみんなに言っておいてくれ。」
 そのままスルリと微笑の隣を通り抜けて、二人は冷え込む廊下へと出て行った。
 微笑はそんな彼らを見送り──まさか、智まで料理が出来るとは思わなかった、とボッソリと零した。
 山田が家事をそつなくこなすことを、野球部員の誰もが知っていたが、里中のことは予想外だった。
 山田なら、料理は出来るだろうとは思っていた──だがしかし、さすがに合宿所全員の分の朝と夜とを、山田に作らせるのはどうかと言う結論に達して、「全員パンを購入してこい」ということになったのである。
 その伝言をしにきた微笑は、実を言うと、山田のことだから、里中と自分の分だけでも卵焼きなりで作ることはするだろうと──上手くいけばその相伴に預かれるかもしれない、というもくろみを持っていた。
 けど、
「……ビックリだな。」
 仲良く部屋を出て行った二人の部屋に、ポツン、と残されて、微笑はしんみりと呟いた。
 まさか、里中まで料理を作ることが出来るとは。
「おれなんか、家庭科の授業でも、マトモに作ったことは無かったぜ?」
 里中が、自ら進んで家庭科の授業中に、作るようには思えないんだが。
 そんなことを思いながら、微笑は顎に手を当てて、いやー、と、感心の吐息を零す。
 零しながら、とりあえず明日の朝、腹にたまらないパン食で我慢することはしなくて済みそうな事実に、にんまりと顔がほころびた。
 まぁ、味については、腹さえ満腹になればヨシとしよう。
 どうせ自分たちが作れば、どれほど時間が掛かるのかわから無い上、まともな味が出来るかどうかもわからないのだから。
「────………………で………………。」
 小さく呟きを零して、微笑はそのまま視線を下に落とした。
 山田と里中の部屋で、ポツン、と残された微笑は、部屋に入ってきたときから密かに気にしていた部分を、じとり、と見下ろす。
 部屋の中に布団は一組。
 上には、里中が放り出した雑誌がポツンと置かれている。
 ──布団が一つしか敷いてないのは、まぁ、まだ山田の分を敷いてない、と言う意味だと思うのだが。
「………………ならどうして……。」
 そう、ならどうして、里中が横になっていた布団に、枕が二つ置かれていたのだろうか…………?
「……………………。」
 考えると怖い思いに突っ走っていきそうで、微笑はあえてそのことを頭からはじき出すのであった。
 そして、
「さぁって、みんなに、朝食の心配はないことを、伝えてくるかね。」
 微笑はそれ以上の怖い考えを振り払って、くるり、と無人の部屋から出て行った。








 賄いのおばさんの聖地である厨房は、ヒンヤリとしみこんだ冷たい空気に満ちていて、ブルリ、と思わず里中は体を震わせた。
 暗闇の中でも、はぁ、と吐いた息が白く見えるような気がして軽く眉を顰めると、パチンと音がして電気がついた。
 静かな厨房は、大きめの冷蔵庫が一つと、コンロが三つ、調理台が一つ、洗い場が一つあるだけで、見回した限りは普通の台所と変わりがない。
 雨の日の時間があるときは、山田も里中もおばさんを手伝ったこともあるから、大体の食器や道具の場所はわかっている。
「寒いな。」
 ふるり、ともう一度身を震わせた里中の肩を抱き寄せて、華奢な体を自分の胸元に引き寄せる。
 里中は素直に山田の手の中に体を預けて、暖かな彼の体に頬を摺り寄せた。
「先に、鍋に湯を沸かして温めてもいいか?」
 上目使いに尋ねると、山田はそんな里中に甘く微笑んで頷いてみせる。
「そうだな、それがいい。
 里中の肩は冷やさない方がいいしな。」
 言いながら、肉付きのない里中の肩を手の平で擦り上げた。
 自室も、ストーブなんてものがないから、寒いことは寒いのだが、それでも二人で狭い部屋に長くい続ければ、熱が多少はこもり、適度な温度にはなった。
 そこから出てきてやってきた台所は、シンと底冷えがするようで、ただ黙って立っているのも辛い。
 山田に抱き寄せられたまま、里中は鍋に水を張り、それをコンロにかけた。
「しかし、10人分近くも作るのは初めてだな。」
「頼りにしてるぞ、里中。」
 ポンポン、と大きな山田の手で叩かれて、里中は小さく笑った。
「それはコッチの台詞だ。
 最近は、ずっと合宿所で食べてたから、まともに作ってないしな。」
 イタズラ気に見上げる里中の目に、それはおれも同じだよ、と山田は笑った。
 野球部員全員で作れば、なんとかなると思っていたが、これだけの人が居て、作れるのが山田と里中だけとは──。
──作れるけれど、面倒だから作れないということにしておいた、という可能性も考えられないでもなかったが。
「岩鬼や先輩たちには期待してなかったけど、まさか三太郎や殿馬も作れないとはな……。」
 里中も同じことを思っていたらしい。山田の腕の中でそうゲンナリとした声で呟くと、小さく身じろぎして、里中はトントンと山田の胸元を突つく。
「山田、体は温まったから、もういい。」
「そうか?」
 名残惜しそうに離れる山田の手の平に、一度手を重ねて、ニッコリと里中は微笑んだ。
「あぁ、それよりも、早く片付けて、さっさと寝よう。
 明日の朝は早いんだし。」
 何せ、十人分だ。
 そう笑って言う里中に頷いて、二人はそれぞれ別の場所に散った。
 里中は冷蔵庫を覗き込み、山田は野菜箱を覗き込む。
 早朝練習のことを思えば、作るのに時間を掛けたくはない。
 となると、簡単に出来るものと言うことになるのだが、それでも10人分ともなると大変だ。
「味噌汁は居るよな?」
 豆腐とワカメがある、と呟いた里中に、うん、と山田が頷く。
「出汁が作り置きしてないから、出汁をとらないと……。」
「キャベツがあるから、浅漬けでも作っておくか?」
「サバの冷凍がある──……。」
 冷凍庫を覗きこんだ里中が、いやそうな声で呟くのに、
「焼くと時間がかかるから、煮物にするのはどうだ?」
 野菜庫の中から、ジャガイモを取り分けていた山田が答える。
「…………………………。」
 里中は、無言で開け放したままの冷凍庫と、山田とを、複雑そうな顔で睨みあった。
 そんな彼へ、
「里中、お前が全部食べるわけじゃないんだから。」
 あきれたように山田は視線を投げると、ほら、と彼を促す。
「今日のうちに軽く煮込んでおけば、明日温めるだけでいいだろ?」
「……分かったよ。」
 渋々の呈でサバを取り出した里中は、それをイヤそうな顔で水にさらして解凍しながら、山田から受け取ったジャガイモの皮をむき始める。
 何やかんやと言いながら、はじめにかけた鍋が沸騰して湯気をシュンシュンと出す頃には、二人ともすでに料理を始めていた。
 手馴れた手つきで山田がサバを捌くと、それを見たくもないと言いたげに背を向けた里中が、キャベツをリズム良く千切りにしていく。
 10人分の食事となると、量が多くて大変ではあったが、二人で手分けをして始めてしまえば、下ごしらえはあっと言う間だった。
 手際よく明日の朝食の準備を終えた里中と山田は、熱気がまだ残る台所から出て、再び寒い廊下を急ぎ足に部屋に戻った。
 自室は、長く部屋を空けていたせいか、居たときよりもヒンヤリと冷え込んでいた。
 微笑が出て行ったときに消していってくれたらしい電気をつけると、布団の上に放り出した雑誌も、机の上に置いたままの本もそのままの格好で二人を出迎えてくれた。
 ただし、枕元に置かれている目覚し時計は、1時間ほど進んでいる。
「……さむっ。」
 思わず眉を顰めて零した里中は、上着を脱ぐに脱げずに、そのままペタンと布団の上にしゃがみこむ。
 先ほどまで横になっていた布団は、服ごしに冷たさを伝えてきた。
 さっさと上着を脱いだ山田が、再び机の前に座り込むのを横目に、里中はそのまま布団の上で再び雑誌を捲り始めた。
 そのまま少し座っていても、暖かさは一向に戻ってこない。
 諦めて里中は上着を脱いで、それを丁寧に畳み込んだ後、雑誌をその横に置いた。
 そして、上着に続いてズボンも脱ぎ、シャツ一枚になる。
 いつまでも起きているよりも、さっさと寝てしまったほうがいいだろう。
 明日は早いわけだし。
 手を伸ばして枕元の目覚し時計を手にすると、里中はひっくり返して目覚ましの時間をいつもよりも早めにセットする。
 スイッチをオンにすると、里中はそれを布団に並べられた二つの枕の中央に置いた。
 これで寝る準備は完了である。
「山田、そろそろ寝よう。」
 ぱふぱふ、と枕を叩いて、里中は机に向かったままの山田を見上げる。
 その声に、机の上の本を畳んだ山田が、うん、と笑って頷く。
「そうだな。」
 そのまま、畳の上を這うようにして山田は里中が待つ布団へと進むと、里中は待っていたかのように冷たい毛布をひっくり返した。
 ヒンヤリとした感触が生足に伝わってきて、ピクン、と体がすくんだが、すぐにその冷たさも気にならなくなる。
「おやすみ、山田。」
 敷布団の上に移動してきた体を見上げて、そ、と里中は目を閉じる。
 当たり前のように顎を上げて待ちの姿勢に入る里中に、山田は照れたように笑ってから、彼の肩に手を置いた。
 そして、紅潮した頬でその瞬間を待つ里中の唇に、そ、と己のそれを重ねた。
「ん。」
 優しく甘い感触に、満足したように微笑む里中が、そ、と瞳を開けて笑みを広げた。
「へへ──おやすみ、山田。」
 嬉しそうに満面の微笑を浮かべて、里中はキュム、と大きな山田の背中に手の平を回した。
 そのまま、ぎゅぅ、と抱きついてくる里中の体を抱きとめて、山田はその旋毛に口付けを落とした。
「……おやすみ、里中。」
 たっぷりと山田の腕の中で間をおいてから、するり、と腕を放し、同じ布団に並べられた枕の一つに自ら頭を落とした。
 じ、と見上げてくる瞳に促されるように、山田は布団の中に入り込みながら、掛け布団を自分と里中の体の上にかける。
 並べられた枕のもう片方に頭を落とすと、里中がそれを待っていたかのように擦り寄ってきた。
 冷たい布団の中の暖かなぬくもりに、そのまま衝動的に抱きしめたい気になったが、なんとか山田はソレを堪えて、そ、と彼の体を抱き寄せるだけにした。
 ──そろそろ、自覚してくれると嬉しいなぁ。
 そんなことを、コッソリと山田が胸の中ではいてることなど、里中はまるで気づく余地はなかった。
言う間であった。





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砂糖吐いてきてください。

朝食メニューについては突っ込み不可。朝からサバの煮込みもないだろうと思うのですが、ほかに煮込みが出来そうな魚で、生臭そうで里中がいやそうなものが思いつかなかったので(笑)。
まぁ、朝とか昼とかからトンカツとか食べてるっぽい明訓高校なら、別に朝からサバの煮込みでもいいかな、とか思いました。

ちなみにココだけの話、微笑はカップラーメン派だと思います(笑)。殿馬は作れるけど面倒だから言わないんだと思います。山岡さんは、目玉焼きとかゆで卵は作れるけど、ご飯を炊けなさそうだと思います。