年末年始は、合宿所を一時引き払って、自宅に帰るのが通例。
特別の理由がある場合は、学校から少し離れた寮で新年を過ごすことになっている。
そんな、一同が勢ぞろいして帰宅した大晦日の夜──誰も居ない、シンと静まり返った学校の校門は、硬く閉ざされている。
いつもは明かりが灯る校舎内の一角も、今日ばかりは明かりが灯る気配も見せない。
肌を刺すように冷たい風が、ヒュゥ、と人気のない校舎の中を吹き荒れていく。
その中──寒さに体を竦ませながら、マフラーとコートで防寒した人影が一つ、校門の前に近づいてきた。
白い息を吐きながら、誰も居ない校門前へと小走りに駆け寄ってくると、外灯にうっすらと照らし出された鉄格子の前に、誰も居ないのを認めて、赤くほてった鼻の頭に皺を寄せた。
「……くそっ、考えることはみんな同じだな。」
言いながら、いつもの癖で校門の向こうを見据え──校舎に付けられている大型の時計を見ようとするものの、暗闇に落ちた時計の針が見えるはずがない。
仕方がないと、彼はポケットに突っ込んだままだった手を取り出し、手袋とコートの間を指で掻き分けると、手首に巻かれている時計の文字盤を取り出した。
文字盤が示している数値は、「約束の時間」の5分前。
約束の時間よりも早めに集まるのが鉄則と言えど、そんなことをしていたら、この冷え込む中、校門の前でふきっさらしで待っていなくてはならなくなる。
そんなのはゴメンだと、ストーブとコタツの中でヌクヌクしながら、ギリギリの時間を測っていたのだが──、
「五分前でも俺が一番乗りって、なんだかな……。」
小さくぼやいて、彼──山岡は、カシャン、と校門に背を預けた。
そのまま左右を見渡すと、「山岡と同じ考え」を持っていただろう主が、右手から姿を見せる。
小さな体を益々小さく縮こませて、吐き出る息にメガネを曇らせて眉を寄せている──、
「おぅ、北。」
ヒラリ、と手を揺らすと、彼は地面を睨んでいた眼を上げて、校門前の外灯に照らし出されたキャプテンの姿を認めた。
「山岡!」
声をあげながら小走りに駆け寄ると、校門の前で首をすくめていた山岡が、ポケットの中に手を突っ込みながら、軽く肩を竦めて見せた。
「なんだ、お前だけか? 他のヤツラは?」
グルリとあたりを見回す北に、山岡は小さく笑みを零すと、
「俺が一番乗りで、お前が二番目。」
「……まだ誰も来てないのかーっ?」
おいおい、と大げさに顔を顰めた北が、まさか、と周囲を見回すが──やはり山岡の時と同様、自分たち以外の人影を見つけることはできなかった。
「岩鬼あたりは、スッカリ忘れて寝てそうじゃないか?」
腕を組みながら吐いた息が、真っ白く闇夜に浮き上がる。
それを何とはなしに視線で追いながら、山岡は溜息を零す。
──去年、俺達が一年の時は、寒さも我慢して真っ先にココに集合したものだったが……今年の一年は、まったく。
昨年もやった「年越し参り」を思い出しながら、どうもあいつらは、先輩後輩の観念がなってないな、と主将としては胃の痛さを覚える今日この頃だ。
この調子では、来年入ってくる新入生に、自分たちは舐められてしまうのではないかと、不安を覚える。
うぅーん、と、今年一年をなんとなく振り返った山岡を見上げて、北が白い息で笑った。
「いや、サッちゃんが昨日の昼間、『二年越しで何かすると、その年はそればっかりする年になる』とか言ってただろ? もしかしたら岩鬼のやつ、夏川さんと電話でもしてるんじゃないか?」
分かりやすいしな、岩鬼は。
そう続けて、クツクツと笑う北に、なるほど、と山岡は頷いた。
「……あぁ、二年越しのジンクスな。」
そういえば、昨年もそんなことを言って、ココに集まった全員で、キャッチボールをしようか、素振りをしようかと笑って話しながら、近くの神社へ向かったものだったっけ。
──毎年、誰が言い出すわけでもなく、始まった行事。
大晦日の夜の午後11時に、校門前に集まって、全員で年越し参りに行くのだ。
大晦日の夜から、元旦の新年にかけて神社を参拝し、来年の抱負をそれぞれに誓う。
とは言っても、来年の抱負はみな似たりよったりに違いないのだが。
山岡はチラリと自分の腕時計を見下ろして、長い針が傾きを更に縮めたのを確認する。
それと同時、左手の方向から、ガシャガシャと、なにやら金属の擦れあう音が聞こえた。
なんだと、二人が眼をやると、外灯の光りに照らされて、三つの人影が見えた。
身長的に考えても、足並み揃えて走りこんでくる三人が、一年生ではないことは一目瞭然。
──オイオイ、二年の先輩全員より、遅れてくる気か、あいつらは。
いや、まさか、こない気か……?
そんな不安を山岡と北が抱いているとも知らず、ガシャガシャとどこかで聞いたような覚えのある音を立てて走りこんできた石毛が、
「おーいっ、悪い、待たせたなっ! 年越しソバを持ってきてやったぜ〜っ!」
「重いっ!」
「中身、零れてないか〜?」
仲根と今川を引き連れて、やってきた。
しかも三人それぞれ両手に岡持を持っている。
もちろん、中身は先ほど石毛の言ったとおり──年越しソバなのだろう。
「ソバっ!?」
「はっ!? 何言ってるんだよっ!?」
ガチャガチャと音がしている原因は、三人が持っているおかもちであった。
笑いながら校門の前に来た石毛は、後ろで息を切らせている二人には気づかない様子で、おかもちを校門の前に置いた。
「そ、ソバ。
これから神社に行って、そこで年越しまでみんなで食おうぜ。」
あっけらかんと笑って告げる石毛は、そのためにギリギリに来たんだぜ、と笑う。
その隣では、自宅から合宿所まで遠いために、石毛の家で手伝いをしながら厄介になっていた二人組みが、そろそろと地面におかもちを置いていた。
そのまま彼らは、バッタリと冷えた地面に座り込み、荒い息を漏らす。
「……ひぃ、ひぃ……け、結構コレ、腕の鍛錬になるな……。」
「でも、あんまり──は、走りたくない……。」
おかもちにもたれるように呟きあう仲根と今川を見下ろして、山岡と北は無言で視線を交し合った。
「石毛……多分、結構人が多いから、食えるかどうか分からないんじゃないのか? 参拝後ならとにかく、参拝前は……きついぞ?」
「そうだぞ、石段にだって、人通りが多いのに、そんなところで食べるのか?」
ダウンしている仲根と今川を見下ろしていた石毛は、すぐにあたりを見やって、もう10時になろうとも言うのに、いまだ一人として姿を見せていない一年生達に気づき、大仰に眉を寄せる。
「ちゃんとその辺りはリサーチ済みだぜ。食べれる場所は見つけてある……っていうか、岩鬼はとにかくとして、山田や殿馬も来てないのか?」
やはり彼も、岩鬼は来るのは微妙だと思っていたようであった。
もしも夏子から「岩鬼くん、一緒に年越し参りしない?」なんて誘いがあれば──あったら、だが──、何も言わず即彼女を選ぶことは間違いないだろう。
「もうすぐ11時だな……。」
まったく、遅刻するとは何事だ──と、山岡がそう呟こうとした瞬間だった。
「すみません……遅くなって……っ!」
石毛達とは逆方向から、声と共に複数の足音が聞こえた。
ハッ、と振り返った先──今年の一年生の新入部員達が、わらわらと走りよってきているのが見えた。
飛び出て巨体が一つ、
「やぁーまだがドンくさいせいやでっ!」
走りながら最後尾を走る山田を振り返りながら叫ぶ。
そんな山田の隣を走っていた里中が、
「何、言ってるんだよ! 岩鬼がいつまでもコタツから出ないからだろっ!」
岩鬼に向けて、山田の代わりに叫んだ。
そんな二人の会話に、当事者である山田は首をすくめるだけ。
三人より数歩手前を軽快な足取りで走るヒョロリとした影と小柄な影は、
「あ〜、寒いなぁ〜。」
「づら〜。」
緊迫感のない声で、ニコニコとランニング中……と言った雰囲気だ。
すぐに姿を見せた彼らを認めて、山岡は思わず手元の腕時計を見下ろし、
「11時ジャスト。」
ギリギリもギリギリだ、と、うんざりした顔で彼らを見回す。
「なんだ、お前等もしかして、一緒に居たのか?」
どこから走ってきたのかは知らないが、白い息を吐きあう彼らの体は、5分とは言えど待ちぼうけを食らっていた山岡とは違い、ホカホカと全身から湯気が立っていそうに見えた。
「づら。」
「夜から今まで、山田の家にお邪魔してたんすよ。」
ハ、と、白い息を吐き出しながら、殿馬が微笑が答える。
「俺ですら、一度家に帰って夕飯を食べてから来たって言うのに、岩鬼なんて『また』山田の家で夕飯ご馳走になってるんですよ。」
何が気に食わないのか、里中は不機嫌そうに顔を顰めて、岩鬼の顔をジロリと睨み上げる。
そんな里中に、岩鬼は飄々とした顔で、
「たーまにはワイも、庶民の年越しっちゅうもんを見てみたろ思たんや。」
と嘯くが、それに殿馬が呆れた顔で突っ込んだ。
「おめーよぉ、去年もそう言って、山田の家に押しかけてたづらな?」
そんな彼の突っ込みに、
「うん、押しかけてたよな。」
──と、なぜか同意を示すのは、里中であった。
山田と岩鬼と殿馬の三人は同じ中学出身であるが、里中は東郷中学出身である──その辺りの事情を知らない物たちは、へー、と素直に納得する。
……が、当時の当事者であった山田は、なんとも言えない、苦虫を噛み潰したような表情になった。
昨年──高校受験をしないと決めていた山田の前に、年末年始にも関わらず、里中や不知火、雲竜が押しかけてきたのは今からちょうど一年前になる。──が、もうずいぶん前のことのように感じた。
それを思い出せば、岩鬼と不知火と雲竜と里中が揃った昨年の年末……無事に年が越せたものだと、感心すら覚える。
なんだかんだで懐の大きい祖父もサチ子も、昨年も今年も、大勢で楽しい大晦日だと大喜びだったのが、幸いといえば幸いだろう。
「あー……まぁいい、とにかく全員集合したわけだし。」
何か言いそうな顔をした山岡達であったが、何はともあれ、ココに全員集まったことのほうが重要だなと、溜息を一つ零して、改めて全員の顔を見やった。
夏の甲子園で優勝を果たし、さらにこの秋の関東大会も制し、日ハムのドラフト1位指名を貰った監督を掲げ……ているわりには、全部でたったコレだけ。少数精鋭もいいところである。
「え、全員って……土井垣監督がいないっすよ?」
軽く汗をかいたのが冷えてきたのか、寒さにブルリと身を震わせながら微笑がメンツを見回す。
しかしその中に、このメンツの「保護者」たる男の姿は見当たらない──もっとも、保護者とは言っても、まだ土井垣も同じ高校の三年生であったが。
「土井垣監督は先に行ってるんだ。──場所取りにな。」
コレ、と、石毛が地面に置いたままのおかもちを持ち上げて片目を瞑る。
かと思うや否や、自分が持っていたおかもちを彼ら向けて差し出し、
「ほれ、一年坊主、お前等一個ずつ持て。」
仲根と今川が持っていたおかもちも、一個ずつ彼らに手渡していく。
全部で6個あるおかもちは、山田に2個、里中、殿馬、微笑、岩鬼に1個ずつ手渡された。
凄く重いわけではないが、銀色の鈍い光を放つソレは、中身が何か入っているという証拠のように、ズシリと重い。
「な、なんや、これは?」
なんでわいがこないなもんを持たなあかんのや、と、ギロリと睨む岩鬼の声に重なるように、里中が首を傾げて石毛をみあげる。
「これは何が入ってるんですか?」
年越し参りや初日の出を見るための道具は、体を冷やさないための毛布と暖かな飲み物くらいだと思ってたけど──と、イヤに重いおかもちに疑問を抱く面々に向かって、石毛は自信満々にニンマリと笑うと、
「うちの特製年越しソバだぜ。」
そう、告げた。
瞬間、
「年越しソバっ!?」
驚いた顔で手渡されたおかもちを見下ろす山田に、
「えっ、って、ココで食べるんすかっ!?」
思わず暗闇の中の校舎を見上げる微笑。
「なんや、年越しソバかい……って、ソバが入っとんのかい!? こないなもんにっ!!?」
大仰に驚く”こう見えても金持ちのおぼっちゃん”な岩鬼。
鈍い銀色の光を放つ「岡持」が何なのか、理解できないらしい。
顔の前まで乱暴な扱いで手をあげかけた岩鬼は、その拍子にポロリと岡持を取り落とした。
「岩鬼っ!!」
慌てて石毛が手を出すが、間に合うような距離じゃない。
あっ、と、一同が声をあげて、岩鬼が持っていたおかもちが地面に叩きつけられるのを一瞬待ち構えたが──だがしかし、ちょうど隣で頭の上におかもちを乗せていた殿馬が、ヒョイ、と足先でうまくおかもちの底を支えた。
「おめぇよぉ、落としてこかしたら、全部てめぇで片付けるづらぜ。」
今の行動をなんとも思っていないような態度と口調で飄々と告げて、殿馬は呆れたように岩鬼を見上げた。
頭に自分の分のおかもちを持ち、さらに足先で岩鬼の分のおかもちを支えるという荒業に、おおーっ、と、二年生たちの口から感嘆の声があがる。
「わいのソバ!」
慌てて岩鬼が、殿馬の足先から自分のおかもちを持ち上げて、ソゥ、とおかもちの壁面に耳を当てる。
──そんなことで中身が零れてるかどうか分かったら、大したものである。
「岩鬼〜。」
オイオイ、と、山岡が「ソコじゃなくって」と手を伸ばして彼の岡持に手を差し伸べ、岡持はここで開くんだよ、と指先で店の名前が入っている部分を示した。
岩鬼はソコを見下ろして、わかっとるわいっ! と叫び、ガシャガシャと揺らす。
そんな彼へ、「だからソコじゃなくって……」と、山岡と石毛が二人揃って岩鬼に突っ込む。
彼らを他所に、里中は自分の手持ち分の岡持を地面に降ろすと、ガコン、と蓋を縦にスライドさせた。
「……年越しソバって……あ、ほんとだ、ソバだ。」
疑問に思ったら、早速実行してみる。
開いた後、地面に座り込んで、里中は岡持の中を覗き込んだ。
外灯の頼りない明かりに照らされたおかもちの中には、湯気で白く曇ったラップが張られたラーメンどんぶりが二個入っていた。
しかもきちんとノリが別添えになっている。
「え、でも……石毛さんのご自宅って、中華屋さんでしたよ、ね?」
両手におかもちを持ったまま、里中が覗き込んだソレを見下ろしつつ、山田が首を傾げて石毛に尋ねる。
「ソバはお袋がゆでてくれたんだよ。──で、それをうちの出前用のどんぶりとおかもちに入れて持ってきたってワケ。」
里中が開いた岡持を見て、岩鬼も自分の岡持ちを見下ろした。
指先でそろそろと開くと、ガコン、と岡持ちの蓋が揺れる。
おおっ、と岩鬼は目を見開いて、岡持ちを開いた。
モワリ、と生ぬくたい風が岩鬼の頬をなで上げる。中には、ラップに包まれた丼が二つ、上下に鎮座していた。
クンクン、と鼻を鳴らすと、ソバの良い香りがする。
「ということは、これで人数分全部あるってことですか?」
ガコン、と蓋を元に戻した里中の問いかけに、いまだに地面にしゃがみこんだままの今川と仲根が頷く。
「そうそう、今年は俺達がいるから、全員分持ってけるな、ってさ。」
「お前んとこのお袋さん、人使い荒いよなぁ〜。」
疲れたように弱音を吐く二人に、石毛は呆れたように腰に手を当てた。
「アレしきで弱音を吐くなんて、まだまだだなぁ。」
その後、快活に笑う石毛に、慣れてるおまえと比べるなよ──と、仲根と今川は視線を交し合った。
そんな彼らをグルリと見回して、山岡は溜息をひとつ零すと、ぱんぱん、と両手を叩いた。
「はいはい、おまえら、そろそろ出発するぞー。」
このままだと、いつまでたっても出発できやしない、とチラリと見下ろした腕時計は、すでに11時を回っていた。
同じく視線を時計に落とした北が、ぅわっ、と小さな悲鳴を上げて、
「まずいっ! 土井垣監督に雷を落とされるぞっ!」
「しかも、ソバも伸び放題だっ!」
石毛もピョンと跳ね上がる。
それは大変っ、とばかりに、岩鬼もバンと岡持の蓋を閉ざして、スチャ、と岡持ちを取って立ち上がる。
石毛の家を手伝ったおかげで、ぐったりしていた仲根と今川であったが、その労働賃とも言える「年越しそば」が伸びすぎては困ると、ピシ、と立ち上がる。
「ほら、行くぞ、お前らっ!」
一同がようやく向かう気になったのを確認して、目的の神社めがけて、山岡が先頭を切って走り始める。
それに続いて、北、今川、仲根、石毛も走り始める。
さらに岩鬼も岡持ちを持って駆けていこうとするが、
「おぅよぅ、岩鬼よぅ、気ぃつけねぇと、走ってるうちにソバが零れるづらぜ。」
殿馬がずらずらと歩きながら注意するのに、ハッ、としたように背筋を正した。
そして、そーろそろと歩き始める。
神経は右手に持った岡持ちに集中しているのが良くわかった。
「そーんなことしてると、夜が明けるっすよ〜。」
片手に岡持ちを持ったまま、スルーリと微笑が軽快に駆けながら通り過ぎる。
「おめぇよぅ限度っちゅうもんがあるづらぜ?」
さらに殿馬も呆れたように岩鬼を追い越していく。
「本当だぜ。」
呆れた様子を隠そうともせず、里中もそんな風に呟いて、ヒョイと左手で岡持ちを持ち上げた。
そうして、両手に岡持ちを持った山田と一緒に、トロトロと歩く岩鬼を追い越し、神社めがけて歩き出すのであった。
明訓高校から神社に向かう途中──遠くの寺から良く響く鐘の音が聞こえた。
ゴーン……ゴーン………………。
その懐かしい音に、お、と山岡は足を止めた。
去年もしたように、今年も鐘の音が響くのを確かめるように辺りを見回し、寺の方角で視線をとめる。
「除夜の鐘だ……幾つ目かな?」
山岡達に少し遅れて続いてきた北も、去年を思い返すように目を細めて彼と同じ方角を見据える。
明訓高校からは聞こえないが、この辺りまで来ると、近くの寺で鳴らしている除夜の鐘の音が聞こえるのだ。
「おーっ、懐かしいなぁ。」
片手を額に当てて、石毛も寺の方角を見やる。
その彼の片手には、先ほど岩鬼から奪い取ってきた岡持ちが握られている。
──あまりにも岩鬼が遅いので、見るに見かねて手を出したのである。
「去年の今頃は、アレを聞きながら、神社の境内だったな。」
それも、今の人数の倍は居た。
しみじみと懐かしむ山岡に、北が苦笑じみた色を掃く。
「あー……去年は徳川さんが居たしな。」
「今年はソレがないから、ソバにしてみた。」
意味深に語る北を受け継いで、石毛も意味深に親指を立てて片手の岡持ちを掲げる。
そんな彼らの会話に、「酒飲み酔っ払い監督」を頭に描いた仲根と今川が首を傾げて、
「徳川さんが居たら、何か別のことでもあるのかい?」
「酒に飲んで、ぐぅたらしてるだけのような気もするけどな……。」
のんびりと道路の真ん中に立って、寺の方角を見ていた山岡達に、のんびりと岡持ちを抱えた微笑たちが追いつく。
「あっれー、何やってるんすか?」
「づら。」
能天気な声をあげて、ゆっくりと歩いてくる彼らは、ソバが伸びることを考えてはいないようである。
片手をポケットに突っ込んだ微笑と、両手をポケットに入れたまま頭の上に岡持ちを置いた殿馬の二人組みを振り返り、山岡は笑みを口元に乗せる。
「ん……いや、ちょっと去年のことをな、思い出してたとこさ。」
ニヤニヤした笑みを浮かべる山岡に、微笑が首を傾げる。
「去年って、神社での年越し参りのことっすか?」
「そ。去年までの監督は徳川監督だったからな〜!」
石毛も明るく笑って、いや、アレは楽しかった、と顎をさすりながら零すのに、北は眉を寄せて頭を振る。
「オレは、散々だったよ。気持ち悪いし、二日酔いになるし──。」
だから今年はソバだけで、安心してるとこ。
そう、ヒョッコリ肩を竦める北の口から出た台詞に、
「…………………………って、もしかして、酒盛りかっ!!!?」
ピーンッ、と来たとばかりに、仲根と今川が叫ぶ。
「……酒盛りっ!?」
「づら?」
驚いたように目を見開いたように見える微笑と殿馬の目の影にも、キラーン、と光るものがある。
そんな彼らの顔を見回し、そう、と山岡はヒョッコリと肩を竦めて頷く。
「徳川監督もなー、最初のうちは高校生が酒を飲むんじゃねぇっ、とか言ってるくせに、飲みすぎて日付が変わる前くらいから、もうベロベロになって、オレたちにまで勧め始めるんだよ。」
それで、後はもう、酒飲み会に突入。
だから当時は「二年参り」=「お神酒大会」なんていう、内々の別名まで付いていたくらいなのだ。
「ぅわ〜、そりゃ、すげぇ……。」
「で、今年は俺達は、土井垣監督と一緒に年越しそばか……。」
先ほどまでは、ソバを食うかと張り切っていたくせに、その話を聞いてしまった今は、もったいないことをしてしまったと思わずには居られない。
「徳川監督、それっぽいっすからねぇ。」
しみじみと呟く微笑も、顎を手でさすりながら、もったいないことをしたなぁ、と思った。
もう一年早かったら……と思うのは、微笑だけではない。
殿馬も、どことなくがっかりした顔をしていた。
「なんだよ、うちのお袋特製の年越しソバじゃ、不満か?」
ニヤニヤと笑いながら、石毛は一同の顔を見回しながら──ま、不満だけどな、と、ペロリと舌を突き出して笑った。
そんな石毛に、同じように明るく笑い声を零して、言えてる、と笑った刹那。
「……あれ? そんなところで、何、立ち止まってるんですか?」
向こうの外灯の辺りから、良く通る声が聞こえた。
不思議そうに目を瞬く里中の形良く整った面差しが、暗闇の中、ぼんやりと浮き上がって見えた。
暖かそうなジャケットにマフラー、さらに手袋まで完備した防寒姿の里中の頬や三井、鼻先が、可哀想なくらい真っ赤に染まっている。
その隣には、当然のように山田の姿もある。
寒さのあまりか、小柄な体をさらに縮ませて山田に寄り添っているその姿は、里中をさらに小柄に見せる。
「何かあったんですか?」
怪訝気な表情を張り付かせて、山田は足を止めている一同を見回す。
ゆっくりと隣り合って歩いてくる二人に、いつもの事ながら仲が良いなと苦笑を滲ませながら、山岡はクイ、と寺の方角を顎でしゃくった。
「いや、除夜の鐘が聞こえるな──って話してただけなんだけどな。」
なぜか、おまえらにまで追いつかれるほど、時間を食ってしまったらしい。
軽口を叩くような口調で楽しげに語りながら、山岡はそのまま二人を振り返る。
「ほら、聞こえるだろ。」
タイミングよく、ゴーン、と厳かに響く鐘の音が、空気を震わせて聞こえる。
その音に、山田と里中が足を止めて、山岡が顎でしゃくった方角を見やる。
「あ……本当だ。」
「除夜の鐘だな。」
はぁ、と吐き出した息が白く、冷たい空気の中に掻き消えた。
そんな二人に、な、と笑いかけた山岡は、そこで初めて違和感に気づいた。
寄り添うように立つ山田と里中の姿は、いつも良く見ている。
あえて違和感を探すというなら、まず第一に、山田が(必要ないだろうといつも思うのだが)当たり前のように、里中の肩に手を回している事実が無いと言うことがあげられる──が、これは山田が両手に岡持ちを持っているのだから、しょうがない。
あれ、じゃ、なんで俺は違和感を感じてるんだと、そう首を傾げかけた山岡は、そこで初めて、隣り合って間近に笑い会う里中と山田の中間点に目をやった。
今日は二人の間に岡持ちがある。
「それ」に気づいた瞬間、山岡は一瞬動きを止めた。
一拍置いて、
「あー……──なるほどなー…………。」
われながら、生ぬるいとしか表現しようのない微笑みが、口元に昇るのが分かった。
いつもなら、そこですかさず二人に向けて突っ込んでいくところだが、今日は大晦日。もう年も変わるというこの時間帯に、無駄なツッコミをして脱力感を抱く必要もないだろう。
──いや、これだけチームメイトがいる中で、自分だけそんな眼を見るのはゴメンである。
そんな山岡の様子に気づかず、里中と山田の二人は、ゴーン……と一際大きく鳴り響く除夜の鐘に耳を澄ませる。
「この音を聞いてると、年越しだなぁ……って気がするよな。」
首を傾けるようにして、じっちゃんとサチ子は今頃、どうしてるだろうと一瞬眼を細める。
隣で里中も白い息を吐きながら、キュ、と右手に持った岡持ちを握りなおしながら、同意を示す。
「そうそう、去年はテレビ見ながら、ソバ食べてた…………って……、除夜の鐘が鳴り終わるまでに、俺達、年越しソバが食べられるんですか?」
不意に、真顔に返ったように眉を寄せて、そこで立ち止まる面々を見回した。
──というよりも、本当にこのままのペースで、年越しまでに神社に着けるのだろうか?
不穏な疑問を里中が口にした瞬間……ハッ、と、ノンビリムードが漂っていた面々の顔に緊迫が走った。
かと思うや否や、ガバッ、とそれぞれに顔を上げて、自分たちが向かう先であった道を睨みすえる。
「──……って、そうだよっ、急がないと土井垣監督が怒鳴り散らされる!」
仲根と今川の二人が、ブルリと身を震わせて急いで走るぞと、一同を促す。
そのまま、彼らは一応キャプテンである山岡に視線を走らせ、急ごうぜ、と手をあげた。
──直後、山岡の生ぬるい微笑みに気づく。
その彼の視線の先を、なんとなく目で追って──山岡と同じように、ピタリ、と一点で止まった。
「──────────……………………………………。」
「…………………………………………。」
仲根も今川も、一瞬ソコで頭がフリーズした。
思わず仲根は、つい先日のクリスマスの日に「彼女」と手を握った自分の右手を、マジマジと見下ろしてしまう。
そして二人揃って、山岡に右へ倣えしたかのように、生ぬるい笑みを口元に馳せた。
そのまま視線をグルリと巡らせ、山岡に視線を向ける。
山岡は、増えた仲間に喜びを感じさせるような笑みを昇らせた後、コックリ、と無言で頷き、わざとらしい動作で顎を上げて、前を見据えた。
かと思うや否や、不意に右手拳を高く掲げると、
「さ、早く行くぞ! ソバが伸びて除夜の鐘も終わっちまうと、意味がなくなる。」
明訓歩調〜、と──ひどく棒読みで叫んで、山岡は真っ先に神社に向けて駆け出した。
タッ、とその床を蹴って走り出した山岡に、てっきり山田と里中に突っ込むものだとばかり思っていた仲根と今川が目を見開く。
「って、突っ込まないのか、山岡っ!?」
思わず仲根は、突然元気良く走り出した山岡を凝視しながら、山田と里中を手の平で示して思いっきり叫ぶ。
──が、山岡は決して振り返ることはなかった。
軽快な足音を立てて、山岡はギョッとしているチームメイトの脇をすり抜けて、走り抜けていく。どうやらそのまま、「何も見なかった」ことにして、神社まで一足先に避難する作戦のようである。
「え、突っ込むって……何かあったんですか?」
キョトン、と目を見張る里中は、山岡達が何に戸惑っているのか──彼らが何を叫んでいるのか、まったく理解していない様子だった。
「?」
同じように疑問を抱いているらしい山田を見上げて、なんだろうな、と首を傾げると、山田もソレに頷いて、走り去っていった山岡の背を見やった。
──と、同時、
「あれ……そういえば、岩鬼が居ないですね?」
山田が、ようやくその事実に気づいた。
神社にめがけて走り去っていく山岡の背と、それを見送る石毛と微笑、殿馬。
そして自分たちのすぐ手前に立っているのが、仲根と今川の二人。
あの目立つ巨体は、ゾロゾロと道路に広がったこの一団の中には、見当たらなかった。
「途中で俺たちを抜かして行ったんですけど……。」
さっさと神社に走っていったのだろうかと、そう不思議そうに問いかける山田を、石毛と微笑、殿馬が振り返る。
「岩鬼なら、俺が岡持ちを持ったとたん、全力疾走で走っていったまま──行方不明だ。」
残念だ、と言いたげに、ちょっぴり茶目っ気を込めて石毛が右手に持った岡持ちを掲げて笑う。
「今頃、神社の階段を駆け抜けてって、違う神社でも目指してそうっすよね。」
石毛の言葉に続けて、楽しげに微笑は笑った後、山田たちを振り返って肩を竦める。
「走ってるうちによー、あいつはよぉ、なーにしてたのかも忘れちまうづらな。」
ずーらずらと、かったるそうに歩いていた殿馬もまた、頭の上の岡持ちが、そろそろ冷えてきたづらぜ、と零しながら振り返った。
そして揃いも揃って、自分たちを見ている山田と里中の間に視線が集中した。
山田の左側と、里中の右側。
いつもと同じように隣り合って立っている二人だが、いつもと何かが違うような気がすると、首を傾げると同時、すぐにその違和感の正体に気づいた。
と同時、
「なんでおまえら、岡持ちを一緒に持ってるんだよ?
買い物帰りの夫婦の真似か?」
微笑は、走り去っていった山岡が決して突っ込まなかったことを、当たり前のように突っ込んだ。
「らーぶらぶづらな〜。」
興味なさそうな声で殿馬が呟くのに、それ以上突っ込むなと、石毛は頭を抱えたくなった──残念ながら、片手に岡持ちを持っていたために、それはかなわなかったが。
そして、微笑が指摘した先──自分と山田の間の岡持ちに視線を落とした里中は、左手ほどには重さを感じない右手の上に重なる温もりを再認識しつつ、
「なんでって……。」
どうして彼らがこのことに突っ込むのか、まったく理解できない様子で首を傾げた。
「山田が二つ持っているのも、どうかと思ったので、一個だけ、一緒に持ってるんですけど?」
あっけらかんと語る里中は、きっと自分の「親切」が、見ている人間からしたら、思わず突っ込みたくなるようなことだとは、思ってもいないのだろう。
その事実を、何でも無いことのように里中から言われた瞬間、石毛たちは揃って脱力を覚えた。
山岡がさっさと突っ込むこともせずに去っていったのは、この全身を襲う虚脱感から逃れるためだったに違いあるまい。
きっと、主将としての責任から「突っ込み」しまくった日々に、疲れていたのだろう。
今年最後くらい、平穏に過ごしたいと彼が思っても、それは仕方がない。
何せ、秋季大会の後──里中が復帰して、山田の記憶喪失だのなんだのという事件の後、この「バカップル」は、天然に「バカップル」ぶりを発揮し続けてくれたのだ。
同じ屋根の下に過ごす者として、分からないわけではなかった。
思わずガックリと肩を落とした石毛は、なんて言って里中に説明したらいいものかと、指先で米神を掻く。
──とりあえず、そんな風に持つのは辞めろと、そう説教したほうがいいのだろうか?
そんな石毛に、微笑は苦笑を滲ませると、里中と山田の間の岡持ちに視線を当てて、うーん、と顎を掻いた。
山田と里中の間の空間──山田の左手と里中の右手が、同じ岡持ちの取っ手を握っている──のだが。
同じ岡持ちを、二人で一緒に持っていようとも、それは、いつもの「黄金バッテリー」のことだと、生ぬるく見守ることはできた。
──が、問題は、ソコではない。
「………………………………寒いよなぁ。」
思わず、二人の手で支えられている岡持ちを見ながら、そんな言葉がこぼれた。
「づらな〜。」
殿馬もそれに同意を示す。
その言葉の裏に秘められた意味を、当事者である山田と里中以外は的確に感じ取った。
もっとも、その先輩達ですら、気づいていない事実はある。
「そうだな。土井垣さん、焚き火でも焚いててくれたらいいんだけどな。」
「まさか、神社の敷地内だろ?」
微笑がもらした台詞を、今の温度のことだと疑ってもいない山田と里中は、明るく笑いながら軽口を叩き合う。
その二人の手元から視線をずらしながら、まぁ、なんだ、と微笑は手袋に包まれた自分の手の平を見下ろしてから、
「……まぁ、おまえら二人は、片手があったかいから、いらないんじゃないの? 焚き火。」
うんざりした顔で微笑は零す。
クイ、と顎で二人の間を指し示すと、里中は自分の右手を──正しく言うと、岡持ちを持った右手の上から、重ねられている山田の左手を見下ろすと、
「うん、山田の手って、あったかいよな。ホッカイロいらずだぜ。」
コックリと、頷いてくれた。
その目元や頬が赤らんで見えるのは、決して照れや羞恥のせいではなく、単に吹いてくる風が冷たくて、上気しているだけに過ぎないということを、微笑も殿馬も知っていた。
できることなら、もう少し羞恥心を覚えてほしいものだと思うが、そんなことが無理なのは、先刻承知。
「あー、そーだなー。智は良く、山田に手をあっためてもらってたっけな。──教室でも。」
「体育の時間もづらな。」
気のない風に相槌を打ちながら、微笑と殿馬は岡持ちの持ち手の上で、重なった山田と里中の手を一瞥した。
突然、体育の時間のサッカー中に、二人揃って足を止めて、手の平を握り合っていることも、なぜか普通に見ることができる事実を知っている以上、今更こんなことで動揺してはいられない。
「里中の手は、すぐに冷えるからな。」
ニッコリと、穏やかな微笑を貼り付けて山田が笑って見下ろしてくるのを、同じようにニッコリと笑って返した里中だったが、すぐに少しだけ困ったように顔を顰めて、山田に握りこまれている右手とは逆の──左手の方を見下ろす。
手袋に包まれた左手は、山田の体温に暖められている右手とは違って、ずっと風に吹かれ続けている。
「でも、左手がな……なんかそろそろ、痺れてきて、感覚がなくなってきた。」
さすがに夜の冷気の下では、手袋ごときでは寒さはしのげはしない。
その上、重いものを持っているせいか、指先に血が通っている感触がしなかった。
時々持ちかえるように努力しているが、もう指先がかじかんでいて、ちゃんと持っているかどうかの感触がない。
そう続けて、里中は真摯な瞳で山田を見上げると、
「さっきから、落としそうなんだ。」
そう訴えた。
──が、そこで山田が持ってあげる、というわけにもいかない。
なぜなら山田も、両手に岡持ちを持っているからである。
「殿馬みたいに、頭の上に乗せられるわけでもないしな……。」
山田もバランス感覚に優れてはいるが、さすがに殿馬ほどのバランスとリズム感を持っているわけではない。
見やった先で、殿馬は飄々とした態度で、頭の上に載せた岡持ちを、微動だに揺らしてはいない。
──さすがである。
「今度、こういう時のために練習してみるか?」
イタズラめいた笑みを乗せて、里中は山田を仰ぎ見る。
そんな里中の台詞を受けるように、
「まずは、ボールを頭に乗せるとこからやってみるづらぜ。」
にやり、と殿馬が笑った。
その頭の上で、ゆらゆらと落ちそうで落ちない動きで揺れる岡持ちに、気が長い話だな、と明るく笑った里中は、すぐに顔つきを改めて、本当にまずい状況になってきたと、左手を見下ろして、
「──……コレ、引きずったらまずいですか、石毛さん?」
とりあえず、岡持ちの主にそう尋ねた。
ちなみに、中身のソバのことは、頭にない。
もし零れていたとしても、この二人分は誰かに食わせればいいと──多分に岩鬼と土井垣に渡すに違いない──、思っている節がある。
そんな里中に、石毛は小さく溜息を零すと、
「……里中、その左手の岡持ちをオレに貸せ…………。」
片手を伸ばして、そう申し出てくれた。
+++ BACK +++
続きます……。